mopetto2012のブログ

朴裕河氏が『帝国の慰安婦』を著しました。私は、そこに差し出された「新しい偽善のかたち」から誤謬の一つ一つを拾いつつ、偏狭な理念に拒否を、さらなる抑圧に異議申し立てをしていくものです。

朴裕河『帝国の慰安婦』批判(5)批判攪乱された「国際法上の議論」と「国内法上の議論」

魔法の花々が呟くように、 >「『朝鮮人慰安婦』として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした。」※注1と話したので、バラの茂みのうしろの方にひっそりと眠っていた女たちは、めぐり合わせを喜び、ひそやかな出会いが取り交わされたように待っていました

                                 ※注1 朴裕河著『帝国の慰安婦』P10

が、本の扉を閉じると、瘧(おこり)が落ちて、初めて〈朴裕河〉と相まみれたのです。埋め込まれていた死骸は次々とむっくりと起き上ってきました。その眼窩(がんか)から眼球が飛び出すほどに、こちらをじっと凝視しています。

 

目を凝らして見るということ。耳を傾けて聞くということ。

2015年は、植民地解放から70年、「日韓条約」から50年を数える年です。

私たちは、もう二度と「慰安婦」を無下にしてはなりませんでした。果てしない航海を経てようやくたどり着いたこの地点に、塞がれた回路を再び〈交通〉させて、さらに〈横断〉させて、その上さらに、もともとなかった回路までもどんどん引いていかなくてはならないのです。人々は、この期に及んで、再び隠蔽・忘却などさせてはならないと、祈りを繋いでいます。

ひとつの〈力〉は小さなものであっても、微細な力線がびっしりと詰まって、今、地下茎を作り、あらゆる地点から波状に伝播しようとしています。

 ところが、日本では負け犬の遠吠えのように、2015年3月17日、秦郁彦日本大学名誉教授、大沼保昭明治大学特任教授(元アジア女性基金理事)が並んで悠然と記者会見を行いました。 「McGraw-Hill社への訂正勧告」について説明したのです。

http://blogos.com/article/108036/

 口火を切った秦郁彦氏は、

>「アムステルダムの"飾り窓の女"というのは有名ですよね。我が東京においてもソープランドがあるのはご存知だと思いますが」と切り出し、次から次へとアグレッシヴな発言を続けます。

>「強制連行はなかったと私たちは強調しているんですが、慰安婦というのは、大多数は朝鮮人の親が娘を朝鮮人のブローカーに売り、それが売春宿のオーナーを経由して売春所に行くと、こういう経路であります。」

続いて、大沼保昭氏です。ひとしきり「アジア女性基金」の功績を自画自賛した後、憤懣やるかたなしというように発言しました。

>「マスメディアは非常に巨大な影響力をもっております。そのために時として社会の諸国民を抑圧する行動を営むことがあります。メディアの意義は巨大だが、同時にメディアは非常に公共的責任を負っております。ところがメディアやジャーナリストの多くの方々は、政府の権力性に集中して、自らの権力性には鈍感と言わざるを得ません。」(会場から笑いが起こる) 

 この最中、またもや朴裕河氏を絶賛するコメントがあったとは、愚かである以前に喜劇的です。聴衆の中からは何度も笑いが漏れました。

ひじょうに興味深いブログ【法華狼の日記】がありましたから、以下にご紹介させていただきます。『 [報道][戦争][近現代][笑えない][陰謀論者]「歴史家」であることすら怪しい19人が米国教科書へ訂正要求をおこない、そこにアジア女性基金理事が連携している問題について』http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20150317/1426658313

 秦郁彦氏、大沼保昭氏は、まさに「炎を吹いて吠えながら」語っているのであり、あの犬の国家(ニーチェ)に飼われるようになったようです。「無反省で何ら変わらない日本」をまざまざと見せつけられました。「右翼」や「国家主義者」とは一線を画していた知識人・文化人までが結集していく様を見て暗澹とします。

 会場から失笑をかった大沼氏ですが、「メディア」をことさらに懸念しているようです。確かにマスメディアの権力性は危険なものです。では、メディアのリスクについて、私も別様の切り口から反撃していくとしましょう。

 映画やテレビの映像は、私たちの行動を煽り称揚し、そうして知らず知らずのうちに「ある文化」のイデオロギーと交差させていきます。(参考:リチャード ダイアー著『映画スターの〈リアリティ〉拡散する「自己」』)

毎日、何気なく観ている〈テレビのニュース番組〉〈時事番組〉ですが、実は視聴者は知らず知らずのうちに、そこに含有されている意味というものを「そのまま」に受け取るように手なずけられているのです。それは、押しつけられるという風にではなく、いつの間にか無意識のうちに運ばれていくというように、です。だから、テレビ番組の制作者は、大衆の心を鷲づかみしようと日々、苦心惨憺です。

例えば、〈ある出来事〉の解釈を示す場合、さり気なく自然さを装って、そこに、多種多様な言説を許容しているかに見せるのですが、実は視聴者の社会的、文化的、政治的世界の地図が抜かりなく把握されていて、易々と〈支配的意味〉に包みこまれていくのです。その仕業は、否応なく強要されるという風ではなく、〈支配的な優先的な意味へ〉と組織されていくということです。

マスコミは時代を読み、「群衆の孤独」を洞察・計算しています。だから、当然、迂闊には〈国益〉という階級・階層の利益を埋め込んではいません。

ここで、あの天安門事件を思い起こしてみましょう。中国政府は、天安門事件のリアルな映像を国民に見せてくれました。ただし、それは〈虐殺〉の映像を編集し、その〈ほんとうの意味〉を反転させたものでした。つまり、学生運動の模様をあたかも〈軍隊への攻撃〉でもあるかのように再編集して放映したのです。こうして参加者は、罰せられるべき犯罪者として仕立て上げられて、そうしてその後、国家の弾圧政策は正当化されました。あの【9・11アメリカ同時多発テロ事件も同じ装置によって伝播されていきました。衝撃映像は、連日、全世界にリアルタイムで伝えられ、それは「反復」という「強調法」で増幅されていき、世界には速やかな報復イスラム原理主義勢力によるテロ攻撃】を肯定する世論が形成されていったのです。

ここで、私は問題提出したいと思います。その物語は、〈一つ〉の解釈を強要したわけではないのです。そうではなくて、むしろ〈対抗的な立場〉、また〈交渉された立場〉まで差し入れているのです。いかにも、多種多様なメッセージを発しているように見せながら、実は彼らの支配的な定義のなかで補強されて正当化されて、〈意味〉が受け取られるように仕組んでいるのです。ここでの作り手の最大の関心は、その物語と〈支配的イデオロギーがあからさまに関係していると見取られないために、いかに挿入し縫合していくかということです。この理論によれば、視聴者は、与えられた立場以外に〈選択の余地〉はもち得ようがありません。

これが、政治問題(政治的契機)となれば、権力は権謀術数にたけています。あえて多面体を回転させて演出して多種多様な見識、複雑な思考回路、拮抗する意見、支配的なイデオロギーを崩すかのように見える物語までも提供して、視聴者を快適な気分に浸らせるのです。この手練手管は、いつの間にか大衆の社会批判を不可能なものにしていきます。視聴者は、不当な政治問題の事件であっても、このリアルな放送によって安直な答えを共有したのだから、自分はわざわざ政治的行動を起こさなくてもいいのだ、些末な〈進歩派〉の言説などに惑わされなくてもよいのだと納得するようになるというのです。(参考:コリン・マッケイブ著『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』) 

狡かな通路、陰険な回廊

上記の大沼氏・秦氏の暴挙とは、まさに『帝国の慰安婦』の内容にピタリと重なっています。さて、いつものように、誤謬の一つ一つを拾いつつ反論していきます。

3P246『ふたたび、日本政府に期待する』(P246)は、誤謬というよりも捏造と呼びたい醜悪なものが夥しく続き、私の再読という作業は、苦渋を咬み千切るようなシンドイものでした。

P246以降 >「日韓基本条約の文面は次のようなものだった」として、部分を引用して解説、解釈しています。が、正しい理解のために外務省[PDF]にて全文をご紹介します。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-237.pdf

『帝国の慰安婦』本文は右往左往する混乱したものですから、以下に朴裕河氏自身が書いた記事【東亜日報】2013年9月30日から、そのまま引用してその概要を示します。(『帝国の慰安婦』本文は、このように簡潔ではありません。)

>『挺対協の主な要求である日本の法的賠償、国会決議による謝罪と賠償は事実上実現可能性がなく、要求の根拠も不十分だと指摘した』

得たり知たり顏で「1965年の日韓協定の限界」と題して書かれていますが、この文面は、あたかも日本政府のスポークスマンのようです。日本の植民地支配、戦後処理を「史実」として捉えていない証左でしょう。

P247 >「日韓間の交渉は、1951年、朝鮮戦争のさなかに、当時の大統領イ・スンマン(李承晩)の要請で始まったという。」

と、朴氏は書いていますが、誤りです。ここには前史がありました。

>「韓国はサンフランシスコ会議に参加することも許されなかった。中国に亡命していた大韓民国臨時政府は1941年に日本に対して宣戦布告していたが、その政府が国際的な承認を獲得することに失敗していたので、朝鮮は日本の交戦国のひとつとして扱われえなかったのである。」

日帝の侵略を受けたその日から朝鮮民族の武装闘争は、ハバロスクの抗日武装部隊、中国革命の中の朝鮮義勇軍、韓国光復軍など詳らかに知られていたのですが、米国もソ連も認めなかったのです。パリ講和会議における列強の無誠意に失望した臨時政府は、パリ委員部、欧米委員部(アメリカ設置)、ロンドン委員部を置き、とりわけアメリカ議会に強く働きかけていましたが外交辞令で応じるばかりでした。ソ連・中国のみが交換条件のもと支援しました。

梶村秀樹朝鮮史』新書東洋史10)(洪淳鈺『韓国近代史論』姜萬吉『韓国現代史』高麗書林)大韓民国臨時政府の独立過程」知識産業社※韓国出版物1977)

 1949年、韓国政府は東京との間で「通商財政協定」を締結しています。1949年4月、韓国は万難排して、東京に〈外交代表部〉を開設していました。1951年、米国の思惑から、北朝鮮に対して日本の部隊を使用する可能性を想定して打診された時、李承晩大統領は、「その場合、北の共産主義者と休戦してでも日本人を撃退する」と鋭く反論していました。李承晩は、大統領に就任すると速やかに、日本への公式な謝罪、対日賠償請求権を欲求して米国を困惑させ、挙句は排除の憂き目に遭ったのです。

※注 筆者は、李承晩を評価していません。欧米の民主主義を学びながらその実、儒教的な知識人の権化であり、日本に対しては徹底してゼロ・サム・ゲーム的な対立を露わにする人物でした。結局は、老獪な吉田茂に一杯喰わされて敗北したのです。

アメリカは日韓関係のもつれを懸念して、国連軍司令官マーク・クラーク将軍、マーフィ大使が吉田と李を東京の昼食会に招待しましたが、突如、吉田は欠席を知らせてきました。しかしクラーク将軍が主催する李承晩歓迎レセプションには出席せざるを得ませんでした。その時、吉田は、>「われわれの軍国主義者たちに責任がある」と発言したのです。これを聞いて我が意を得たりと勘違いした李は、ここで長時間にわたって日本を弾劾する演説を行いました。その時、吉田茂は、ひたすらに微笑を浮かべていたといいます。(オリバー・ファイルの忘備録Murphy,Dipomat Among Warriors,P351)。「歴史」を勧善懲悪から脚色して李承晩を弾劾すれば済むという話ではありません。「史実」は誰によっても捻じ曲げられてはなりません。

李承晩は、「独立協会」(1896年)を設立した徐載弼の盟友でした。1904年2月『日韓議定書』が強要され、天皇・皇族を大株主とする国策会社【東洋拓殖株式会社】が設立されると、朝鮮は憤激のるつぼと化し、韓国の独立解放運動のうねりは全土に波及していきました。その闘いは火縄銃で武装する平民義兵からブルジョア啓蒙運動へと展開を経ていくのです。啓蒙運動の拠点には数多くの教育機関が生まれていって、ブルジョア民族主義思想は民衆のなかに根をおろし内面化し拡大していきました。「保護条約」強要の真相が伝わると、初期義兵に学生、両班儒生、著名な儒学者までがたちあがり、やがて軍隊解散が実行に移されると多くの将校・兵士がなだれ込んできて義兵の隊列につきました。日本帝国主義に弾圧され討伐されると、いよいよ抵抗は鍛えられて、やがて社会主義的民族解放闘争へと移行し、さまざまな[独立軍]が乱立していきました。姜萬吉『韓国現代史』高麗書林)

それは窒息せんばかりの日本の弾圧に身を賭して闘う壮絶なものでした。しかし抑圧され圧迫されても決して萎えることがなく、パルチザンに身を投じる者も続出しました。祖国が解放されたとき、中国、シベリア、米国に亡命していた独立烈士たちが続々と帰国し「日帝36年」を合言葉に再建に向かっていったのです。

※突如として朝鮮が【38度線分断】されたとは、米国とソ連の思惑のなかで餌食になったためです。この重要な『歴史』については、遠からず、別稿にて記事を書きますが、ここに概要を少々記します。朝鮮半島南北分断を同族相争いとみている日本人は多いと思います。しかし、さに非ずです。実は【38度線】とは、大国覇権主義の強い連合国同士の思惑から引かれたものなのです。日本降伏後のアジアでの覇権を考慮しつつも、互いが利権を漁った結果、朝鮮が犠牲になったのです。 (藤村信「ヤルタ〜戦後史の起点」岩波書店)(五百旗頭 真『日米戦争と戦後日本』)

対日降伏要求宣言『ポッダム宣言』は、際どい綱渡りのなかでソ連を外して(ソ連は、打算からまだ対日戦には参加していなかったので、第三者であるという口実をつくった)発表されたものなのです。つまり「抜け駆け」です。ソ連は、日本を分断して北海道を己が占領しようとしていたのですが…瀬戸際で、アメリカの日本単独占領が実現してしまいました。まさに〈してしまった〉という不可思議な話であはあります。日本が、ドイツのように分断されずに済んだのは大国の「分別亡き打算」によるものであり、それは幸運ともいえるものです。それは朝鮮の分割占領の犠牲のうえに成ったものでした。その後も朝鮮半島には「冷戦構造」の矛盾が最も鋭く投影されていきました。 (藤村信「ヤルタ〜戦後史の起点」岩波書店)

 

P246~252までは、誤謬に満ちています。

P251 >「日本は、…略…韓国に公式に謝罪したことはない。」と書いたかと思うと、P253 >「植民地支配に対する天皇や首相の謝罪はあった。」

 と来ます。これは何ぞや!です。読みながら、その言い替えが空疎な弁解に聞こえてきます。

 

隠れた状態から、明白な状態へ

では、ここでは対論ではなく「史実」を記載します。(論破できないためではなく、混乱のなかへ読者を巻き込みたくないからです。)

第二次世界大戦後、日韓の間隙を狭めるための知的対話が必要とされましたが、残念ならそのような人材は皆無でした。李承晩は、日本との平和条約締結のために飽くなき努力を重ねますが功を為しません。そこで、サンフランシスコ条約が締結されるとすぐに〈連合国最高司令部〉に日韓会談の斡旋を要請し、また、ワシントン駐在の張勉大使に対して「韓国にはサンフランシスコ条約に参加する権利があることを強く主張するように」と指示もしました。そうして、ようやく1951年「日韓会談」がもたれたのです。しかしこの会談は、両者の亀裂に爆発音が聞こえるほどに絶望的なものになってしまいました。そこで業を煮やした李承晩は暴挙に出たのです。1952年1月18日、米国に無断で朝鮮沿岸50~60マイルの水域に対して主権を宣言したのです。これが「李承晩ライン」です。日本はサンフランシスコ条約に調印していましたが、未だ発行してはいない米軍占領下であることに可能性をかけたわけです。しかし、この苦渋の交渉のなかで「サンフランシスコ条約」に日韓関係に直接的に影響を及ぼす条項【第4条(b)項を挿入させることができたのです。それは、以下です。

『日本国は第二条約及び第三条に揚げる地域のいずれかにある合衆国政府により、またその指令に従って行われた日本国およびその国での財産の処理を承認する』

(李庭植『戦後日韓関係史』:中公叢書1989P52)(『高麗大学亜細亜問題研究所』編『韓日問題資料集』第2巻、P651~653)(藤島宇内『日本を揺さぶる韓国の政治不安』中央公論[320248]P82

 日本政府はあらゆる戦後補償問題に対し「サンフランシスコ条約および二国間条約により解決済み」と繰り返してきましたが、それは、真っ赤な偽りと指摘しなくてはなりません。日本政府は故意に講和条約4条(b)項』にある請求権の問題を避けて「韓国人被害者個人の賠償請求権も消滅した」と歪曲した解釈を繰り返し述べました。そうして事あるごとに「日韓協定によって解決済み」「完全かつ最終的に解決済み」と表明しては風評を広めていったのです。冒頭に書きましたが、国民を易々と〈支配者〉のイデオロギーに包みこんでいったわけです。今日では多くの日本人が地獄で合奏でもするかのように韓国をバッシングしています。

 

「異議申し立て」を巧みに回収しては忌まわしい形式へ

朴裕河氏は、知ってか知らずか、堂々と以下のように書いています。

P195 >「被害者団体は、1965年の条約により『補償』は終わったという現実に対して、日韓の法ではなく、国際法上の法規を適用しようとしてきたようである。しかし、そういったものも『法的に』日本を追及できるものではないという結論ともいえるだろう。」

さて、まずは、ここで優れた論考をご紹介します。【『日韓協定によって解決済み』論に対する山本弁護士の反論】は大いに参考になります。

http://www.kanpusaiban.net/saiban/yamamoto-hanron.htm

1992年3月9日【衆議院予算委員会】における伊藤秀子議員の質疑の答弁から明らかですが、日本政府は、日韓協定締結時から個人の請求権を消滅させるものではないことを十分に認識していたのです。(甲六五号証)

国際法上の議論と国内法上の議論を故意に混ぜ合わせながら、日本国民を惑わせて「解決済み論」へと導いていったのです。

実は、日本政府の二枚舌とは、かつてから繰り返されていました。【原爆裁判】下級裁判所民事裁判判例集14巻2451頁)【シベリア抑留訴訟】国立国会図書館『調査と情報』230号)のいずれにおいても、訴訟の被告人となった日本政府は、

>「サンフランシスコ平和条約・日ソ共同宣言の請求権放棄条項によって放棄したのは国家の外交保護権のみであり、被害者個人の米国やソ連に対する損害賠償請求権は消滅していない、したがって、日本国は被害者に対して保証する義務はない。」と述べました。

 読者のみなさんは、ここで〈ガッテン〉なさいましたか?つまり、自分が請求されたとき、必死の言い逃れで理屈を作ったのです。まるで落語の小話のようです。ある場合には「韓国人被害者個人の賠償請求権も消滅した」といい、そうして自国民の請求に対しては、「個人の権利の請求の消滅を意味しない」と相矛盾したことを主張しています。文字通り墓穴を掘ったのです。つまり、「個人の権利の請求の消滅を意味しない」との見解は、日本みずからが苦肉の策として創始したものなのです。

ここで、本題の朴裕河氏批判に移行します。実は朴氏は、【ハフポスト】趙世暎氏の論考をすべて読んでいるのですから(後述)、日韓という、まったく別の二つのナショナリズムの間で、巧みにダブルスタンダードをしているわけです。

 

いかがわしい「公式の虚偽」へと変質

『帝国の慰安婦』P192他に、

>「個人が被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だった」

と何度も書かれていますが、あまりにも独善的な解釈であり噴飯ものと言わねばなりません。気の毒にも、P193には、藍谷邦雄弁護士の法律論を引用しているのですが、自分に好都合な部分を引用した挙句に、

>「たとえ慰安婦制度に問題があったとしても…略…それに対する損害賠償を求めるのは不可能だということになる。」

と得手勝手にまとめています。

※参考として【〈従軍慰安婦〉問題討論 ~歴史学 vs 人権弁護士~】

http://www.yourepeat.com/watch/?v=AXWb4MQ_-hU

私には未知の人物ですが、経歴を調べてハタと疑問に思われましたから藍谷邦雄弁護士の記事、論考などを読んでみました。真逆でした。朴裕河氏とは、どのような思想の持ち主なのでしょう。背景の違う多様な『言説』を水平化して真偽を綯い交ぜにして歪曲し、自分の主観によって塗り替えています。これらの全ては「慰安婦」にとって不利益です。さらに二次被害をもたらす惨い言説です。

P184 >「根本的な問題は、日韓併合が、国民に知らないところで少数の人によって『合意』の形を取って行われたことにある」として、

P185より、「日韓併合条約の拘束」と題して論を展開していくのですが、>「当時の併合が〈法的〉には有効だったという致命的な問題が生じるのだ。」

 と紋切型に結論しています。

ここに及んでは、朴氏の虚栄の数々に辟易するばかりです。「歴史」「法律」「国際政治」「文学」を総動員していかにも学際的な論考であるように見せていますが、「日韓併合」「韓日基本条約」への見解を読むならば、朴氏は日本史ばかりか自国の歴史にも疎く、ほぼ全ての論考が付け焼刃の借り物の知恵であると判明します。酷なようですが、私は、朴氏ご自身に「読み直し」を促すために、率直に批判しています。証明するためには「正確は義務」ですから、少々長くなります。読者の方は、どうぞジャンプしてください。

韓日基本条約21910822日以前に大韓帝国大日本帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」と規定されています。

【外交的事実】とは、関係国の利害を反映しますから、それぞれが異なる解釈をして、相反する記録を作成するとは珍しいことではありません。韓日基本条約第2条】の解釈を、日本政府は「【韓国併合条約】が『締結』された当時は、これが法的に有効であったことを認めた」と解釈しました。

しかし、韓国政府の解釈は逆です。条文から「【韓国併合】が当初から法的に無効であったことを定めたもの」と解釈したのです。

 では、ここで《国際法上の評価》をもって類推し、客観的に判断しましょう。

当時の国際法においては、国家への武力による条約の強制があっても有効であるが、国家代表者に対する脅迫があった条約は無効原因となるとされていたとは〈酷薄な事実〉なのです。

また、1963年、国連ILC報告書の中で、ウォルドック特別報告官第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例とし発表しています。

ここで言う代表者個人への強制の事例としては、強硬な反対派であった参政大臣(総理大臣)の韓ギュソルを別室へ監禁し脅迫の上、官印を強引に奪い取って極書に押捺させた事などが挙げられています。その様子は、ロンドンデイリーメイル紙の記者マッケンジーの著書『朝鮮の悲劇』他に書かれています。(11月23日付け英字新聞『チャイナ・ガジェット』)

ここで、少々解説します。日清戦争後、日本は先勝の余勢に気勢をあげて次々と高飛車な要求を朝鮮つきつけてきました。そうして軍人、警察は大陸浪人を引き連れて我がもの顔で闊歩したのです。

そうして世界の帝国主義侵略史上、他に例をみない粗暴極まる閔妃虐殺事件】を起こしたのです。当時、日本は戦争景気にわいていて過熱状態はいよいよ高揚し、排外主義・収奪は激しくなっていきました。そうした世論を背景に日本帝国主義は着々と朝鮮の植民地計画を邁進していったのです。

日露戦争の最中、1905年、11月9日、伊藤博文は、京城に着くと翌日には慰問と称して韓国皇帝に無理強いして会い、そうして再び15日訪問すると、今度は「保護条約締結」を迫って皇帝を脅迫したのです。その後、特命全権公使林権助に根回しを命じると、17日、伊藤は、駐屯二本軍に王宮を包囲させた上で、直接、朝鮮政府の閣議の会場に乗り込んでいきました。梶村秀樹朝鮮史』:新書東洋史10)(旗田巍『朝鮮の歴史』三省堂)(中塚明『近代日本と朝鮮』:三省堂新書)

>大臣一人一人に脅迫的に賛否を答えさせて、汲々として次々と賛成するようになると、最後まで拒み続ける総理大臣韓ギュソルに対して、>「わたしは諸君にばかにされては黙っていない。」と激高して迫り、韓が震えてようやく「他の閣僚と意見を異にするのもやむを得ない。よろしく進退を決し、つつしんでこの大罪を待つほかはない。」と言うと、(韓は)さっと席を蹴って立ちあがったが足取りもすさまじく、会議室を出て、国王の御座所のほうにむかっていった。ところが、よほど興奮していたからであろう。国王の室と王妃の室を間違えてはいってしまった。失態である。急いで出るには出たが失神してしまった。」林権助『わが70年を語る』:ゆまに書房2002年)※この描写の臨場感とは、犯行に当たった当人が回想録として書いるためでしょう。

 閔妃虐殺事件とは事実であり文書によって証明されています。現職公使三浦悟楼の直接指揮のもとに駐留軍軍人と大陸浪人が王宮に押し入って、王妃を虐殺し死体を凌辱し、その挙句、石油をかけて焼き払ってしまったという事件です。世界を震撼とさせた事件ですが、何と三浦らは裁判にかけられたものの「証拠不十分」として全員免訴になってしまいました。角田 房子閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』新潮文庫) この著は、真相を掘り起こした優れた歴史読み物と思います。

 

蔓延する政治的ニヒリズム

P238 >「『河野談話』が認めたのは、〈軍人が強制連行〉したという意味での『強制性』ではなかった。日本政府が認めたのは、あくまでも『慰安婦』という存在が『総じて本人たちの意思に反して』生じたという点であり、そのことに対する総体的な責任である。」

P239 >「少なくとも『河野談話』の文面が認めている『強制性』は、間接的な強制性のみだった。」

 朴氏の言は、現実と自分の距離を測ったうえで、シニカルにあれもダメこれもダメなんだと言いつつ、あたかも〈保守〉を美化し期待しているかのような幻想を振りまいています。何のために?卑俗なる欲求が透けて見えてくるようです。

政治問題の論争が交錯する場に自らわざわざ出かけて行った朴氏ですが、主張するように解決のための道筋をつくりたかったというのが本心であれば、やはり「事実における堅い芯」「それを包む疑わしい解釈という果肉」を対照させながら吟味するという「対象との対話」(丸山真男)が必要です。しかし、そもそも河野談話という《歴史的事実》を洞察してはいなのです。

道に踏み迷うものの案内者を買って出ようとするのなら、まずは、歴史的背景を辿り直す必要があります。1993年8月4日に発表された「河野談話」ですが、これは積極的に自発的に出されてきたものではありません。

1991年以降、「慰安婦問題」は日韓の最大の懸案の一つとして浮上していましたが、1993年2月に発足した金泳三政権は、日韓関係を対局的に判断して、韓国政府が元慰安婦を金銭的に支援する政策を打ち出し、代わりに真相究明や青少年への学習指導などを日本に求めたのです。真実は、〈外交〉という水面下において真相究明というものを粘り強く交渉していました。勿論、「慰安婦」問題は請求協定によって解決されると踏んではいませんでしたが、日本に対して道義的責任を迫ったのです。そうして、5か月後、努力が実ってようやく「河野談話」が出されたのです。

この時、両国は自国民に対してそれぞれ別の説明をしていました。

日本は、韓国政府自らが「元慰安婦を金銭的に支援」したことを当然だと白を切るような発言をしました。(すでに請求権協定によって解決済みであり韓国政府が受け取った請求権資金で支払うべきだったが、今になって行ったのだ。)

一方、韓国の金泳三大統領は、屈辱を噛み殺して国民に真相を発表することはありませんでした。「道徳的優位に立った自救措置」と説明して、韓国民の尊厳を守るべく演説したのです。(ここで、『道徳的優位に立った』について解説します。日本では、この言葉がとかく揶揄されているのですが、これは儒教の『仁』とか『徳』という意味であって、優劣をつけて日本を下に見るということではありません。儒教の教えが国民には受容されると読んでいたのです。)

韓国は、そのような不満を日本に抱いていましたが、何はともあれ「河野談話」には、慰安婦の募集、移送、管理などが「総じて本人たちの意思に反して行われた」と表現されていますから、強制性を認めたことを評価したのです。それは、馴れ合いではなく、別の肯定へと前進していこうという意思でした。

しかし、そのような接近は、早晩にも崩されていくことになってしまうのです。すぐさま、日本の保守派、新自由主義者タカ派は「河野談話」に圧力をかけていきました。

1995年の「国会決議」を前にして、日本の右派は、199412月【終戦50周年国会議員連盟】(事務局長代理 安倍晋三)結成。翌966月、歴史教科書への攻撃を狙って「明るい日本・国会議員連盟」(事務局長代理 安倍晋三)結成。97年【明るい日本・国会議員連盟】(事務局長代理 安倍晋三)結成。同年さらに【日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会】結成。これが、2004年『日本の前途と歴史教育を考える議員の会』(事務局長 安倍晋三)と改名されて、以後、歴史教科書へ集中攻撃をかけて〈植民地統治美化論〉という政治的キャンペーンを展開していったのです。

その騒然とした動きの中で〈政治家の妄言〉も韓国に聞こえてきました。またもや韓国は臍を噛んだのです。

そのような苦渋が察せられる記事があります。

【ハフポスト】趙世暎(チョ・セヨン)東西大学特任教授、元韓国外交通商部東北アジア局長『日本軍慰安婦問題を考える』です。

http://www.huffingtonpost.jp/seiyoung-cho/japan-comfort-women_b_4909640.html

「日韓の友好」は、金泳三政権を継いで金大中政権(98年2月発足)も重視し、盧武鉉政権(2003年2月発足)も基本的にこの路線を踏襲していました。

ところで日本では知られていませんが、韓国内では、1965年締結された【日韓基本条約】の交渉過程を明らかにすることを求める運動が活発化し続けていましたし、その関連文書の公開を求める裁判も起きていたのです。(韓国の大衆は日本の教科書記載をめぐる問題に反発しました。国内にはいつも『日本問題』はあり続けていたのです。しかし、韓国政府は外交問題にしないように鎮めようと苦心していました。)

ところが、とうとう裁判所の審判により〈公開〉を命じられてしまいました。そこで韓国政府は2005年8月、韓国側文書を全面公開したのです。同時に、「サハリン残留韓国人」、「元慰安」、「在韓被爆者」について日韓請求権協定の例外とすることを確認し、韓国側の財産権放棄を定めるに至ったのです。つまり、個人の請求権が消滅していないことを明言したのです。

さて、これを受け、市民団体は慰安婦問題」について、いよいよ韓国政府の取り組み不足を批判して、問題とする裁判を起こていきました。その訴えから5年後、11年8月、韓国憲法裁判所の違憲判決」が下されたのです。

韓国憲法は、元慰安婦らへの個人補償が協定の例外にあたるのかどうかを、韓国政府が日本政府と交渉しないことを違憲と判断した。

このような展開は想定外なものであり、日韓とも狼狽したに違いありません。日本政府は堂々と「協定によって請求権はすべて消滅した」と国民に宣言していましたし、韓国政府にしても、外交的配慮からなされた「知恵」であったはずの「被害者に対する実用的な支援」が、障害にぶつかってしまいました。

もはや、韓国政府としては、判決に従って日本政府に対して協定第三条一項によって〈外交的協議〉を提案しなければなりませんでした。これは憲法裁から命令された義務なのです。ところが、これに対して日本政府は公式な回答を出さないのです。つまり頬かむりしているわけですが、このような日本政府の不体裁をいったい、いかほどの日本人が知っているのでしょう。

李明博大統領が、首脳会談において日本の首相に「慰安婦」問題の解決を強く迫ったのは、この「違憲判決」によるものでした。韓国政府は、いつも日本政府と被害者に挟まれて動揺していたのです。日本は「何回謝罪すればよいのか」と言いましたが、韓国も「何回謝罪を覆すのか」と抗議しました。これが躍起になって繰り返えされている応酬です。実は、両国とも水面下において厳しい外交交渉に取り組んでいたのです。(その交渉も13年12月の安倍首相の靖国神社参拝で途絶えました。)

今日では、NGOや女性団体の活動が拡大し、その国際的な協力が飛躍したこともあって、韓国政府は、徐々に被害者の声に押されて「被害者の権利拡大」のための方策へと舵を切り直しています。

河野談話をさらに屈曲していく鉄面皮な罪

2014年6月20日、日本政府は【河野談話検証結果】を発表しました。その中には〈秘密解除〉されていない外交記録実務者間の意見交換の他、外相会談、首脳会談の内容にまでいたる詳細な記録)が多く含まれていました。外交問題なのですが、事前交渉どころか前触れもなく、突如として発表されたのです。これは異常事態です。正常な外交をあえて壊すような愚挙です。韓国政府は日本が日韓の協議内容を勝手に編集したものだと受け止め、態度を硬化させていきました。

※2014年6月23日、趙太庸〈韓国:第一次官〉は、別所浩郎〈駐韓国大使〉に対して、外交機密を暴露したとして「日本政府の信頼性と国際的な評判が傷つくことになる」と批判を申し伝えた。

なぜなら、その内容は明らかに均衡がとれておらず、日本政府に都合よく編集されていたからです。アジア女性基金に関する内容が三分の一ほども割かれているのですから韓国政府は「慰安婦問題」で攻勢をかけてきたと読みました。外交協議の内容まで一方的に公開されて、韓国が「アジア女性基金」を評価しないばかりか、非難さえしているという印象をもたせるものでした。かつ、「いわゆる『強制連行』は確認できない」という文言が2箇所も含まれていたからです。ところで、肝要なことをお伝えしますが、それは一つの〈外交的事実〉についてです。
金泳三大統領との交渉以来、日韓の水面下でのやり取りを秘密にしてほしいと頼んできたのは日本だったのです。それを自らが不当に約束を反故にしてしまったのです。韓国は欺かれたと落胆しようです。2014年2月20日、石原信雄元官房長官は、いきなり衆議院予算委員会に引き出されて、政府が望むように証言しなくてはならない立場に困惑、狼狽したでしょう。その心中、察して余りあります。

事実は「知る人ぞ知る」なのです。私は、第二部にて書きましたが、「基金」は当初から韓国では大反対されていました。被害者と支援団体は、あくまでも日本政府の法的責任と補償を要求してきたのですから、「個人補償ではなく人道支援措置」という民間人からの償い金では認められないというものです。韓国政府は、韓国世論を受けて勘案し、日本側に何度も「基金による償い金の支給は好ましくない」と強く伝えたのですが、日本側は、にもかかわらず躍起になって基金事業を進めていき挙句は支給を強行していきました。韓国内の反発は強くなるばかりでした。

13年2月、朴槿恵政権が発足すると、慰安婦問題をめぐる状況はさらに混迷を深めて、韓国政府は、慰安婦問題に関する白書を出版・公表する準備に入ったと公表ました。(それは、>「一致して入念な準備によって構成された『違法性』を主張するもの」であるとのことです。)日韓の「歴史問題」は、ますます硬直しているようです。

植民地解放から70年、「日韓条約」から50年を数える今年、2015年。日本の右傾化のなかで歴史修正主義たちは日々、巧妙に(資料操作にもとづいて)執拗な攻撃をかけてきます。安倍晋三政権は、マスメディアの独占に苦心し、そうして衰退・腐敗に拍車がかかるマスコミをいよいよ「生ける屍」にしようと驕慢に邁進しています。この時、果たして『帝国の慰安婦』の刊行は如何なる〈位置と現在〉なのでしょうか?

私たちは、思わず知らずにナショナリズムの鼓吹に乗せられて不可視な不透明な権力の支配的な意味に包まれてしまいます。それらは日常的に絶え間なく再生産されて、ひたひたと忍び寄ってきているのです。自由を奪われ欺かれたくないなれば、その「国家権力」の諸関係を私たち一人ひとりが丹念に逐一読み解いて、そうして、執拗に組み換え続けなけなければならないと、自身を叱咤する毎日です。