mopetto2012のブログ

朴裕河氏が『帝国の慰安婦』を著しました。私は、そこに差し出された「新しい偽善のかたち」から誤謬の一つ一つを拾いつつ、偏狭な理念に拒否を、さらなる抑圧に異議申し立てをしていくものです。

敗戦後70年『痩せた民衆・欲情との結託』(12)

日本は、脱臼したまま、このまま後ろ向きに前へと進んでいくのでしょうか?

微に入り細に入り各方面へ目配りし、思弁の技術を駆使したものの止むを得なく〈中庸〉を選びとった『戦後70年安倍談話』。

国際社会がもっとも注目していた「慰安婦」問題への言及はなく、そうしてあえて韓国への謝罪を避けた『戦後70年安倍談話』。これは、追剥ぎのようなものではないか!

 慰安婦は、衣の下の瘡蓋をかきむしりながら、身も世もあらぬ哀しみに沈みこんでいるのかもしれません。

 このような日本なのだから、弱い者、社会から排除された人、無防備なまま暴力へと曝された人、異邦人、女性、そうして動物にも優しくはありません。今日も、夥しい脆いものが、無情に損ねられ、侵され、引き裂かれて、毀されています。

 ふり向けば、日本の自由主義史観論者「歴史事実委員会」ワシントン・ポスト(2007年6月14日)、「THE FACTS(事実)」という見出しで意見広告を出し、慰安婦募集に日本政府や軍の強制はなかった、「慰安婦は性奴隷ではなかった」と主張し、さらに「慰安婦」は公娼制度であったと主張した(その根拠として『旧日本軍の強制を示す文書がない』)ために国際社会に波紋を起こすこととなってしまいました。そうして、むしろ逆に、2007年7月31日アメリカ合衆国下院121号決議(United States House of Representatives proposed House Resolution 121)がなされたのです。

※深刻な憂慮をもつ「韓国国会」は、20071113日【韓国国会決議案・発議

 2013年『正論』12月号などは分かりやすい記録です。 西岡力「特集 慰安婦問題、反撃の秋」「さらば河野談話!暴かれたずさん聞き取り調査」、「元主筆の『勇み足』誤報告白でも責任取らぬ朝日の醜態」、「現地報告 大顰蹙のアメリカ『慰安婦像』建立運動etc.

翌年、菅義偉官房長官は、2月28日午前の衆院予算委員会で、政府内に検証のためのチームを設置する考えを示したのですが、後が矛盾噴出で大わらわでした。この時、まだまだ強気だった安倍晋三首相は、あの有名な妄言を述べたのです。

>「安倍晋三首相は、世論調査などで再検証を求める声が高まっていることに関し「政治家は歴史に対して謙虚でなければならない。同時に政治家の仕事の評価は歴史家や専門家に任せるべきだという思いを新たにしている」

 

「あの戦争」と呼びならわすようになった〈痩せた民衆〉

私は、在日韓国人ですが日本の学校で学びました。時に、思いもかけず降って沸いてくるような日本人の差別感情に当惑し、なぜ?という問いは、私を日本史、日本の文化史、民俗学へと誘っていきました。知ると、胸が痛みました。日本人大衆の多くは水飲み百姓として辛酸をなめて耐え忍んできたようです。「朝は朝星、夜は夜星」と身を粉にして働く身の上でありながら自らが収穫した米を口にすることができなかったのです。※江戸時代中期1782年~1788年の「天明期の大飢饉」では餓死者を多く出し、草木の葉さえ食べ、挙句には人肉まで頬張ったといいます。(餓死萬霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)

 ムラ共同体は、「泣く子と地頭には勝てぬ」「上を見て暮らすよりも、下を見て暮らせ」と教えさとし、人並みであるためには《はみだす》ことの怖れを醸成しては叩き込んでいきました。

ところで、「表の団結・裏の村八分という空気を、私は、今日でも感じることがあります。人間を差別化して序列化する「学校」では、序列という〈縦糸〉に、「人並み意識、横一列」という〈横糸〉が両方からバランスをとって子どもたちを管理しています。もしも、そこに「異質」なものが入っていくとその共同体は速やかに縦糸と横糸を強めて、総力あげて「異質」を排除しようとするのです。他者との出会い触れ合いの少ない子ども社会は、無意識のうちに大人社会の文化(掟)に感化されていて、残酷なほどの几帳面さで排斥していきます。今般、深刻になっている『いじめ』問題とは大人社会の反映でしかありません。

 今日でも異質なものに対する恐れ、嫌悪感を隠さない日本人は多いのですが、そのような先入態度は、日々の暮らしのなかで迷信や格言などを通じて、古い時代から日常的に再生産されてきたものです。反省する機会がないために「偏見」にまで変わってしまったものです。

思えば、日本の場合、1970年代初頭のころ世の中には「差別」の言葉が氾濫していました。卑近な例をあげるなら、科学者でさえ「精神年齢」という用語を用い、また「白痴」「痴愚」といい、行政では当然のように「就学猶予」「就学免除」の制度を強制しました。

>「制度としての差別がある種の『科学性』と結びつき、この世は地獄となる。」(山下恒男著『差別の心的世界』P356

慎ましい素朴な人々が、威光のある意見に出会うとその「先入態度」は容易く理論化されてしまうのです。『戦後70年安倍談話』が痛痒無きものであるとは、知識人も一般人の別もなく〈素直な心〉で「自己肯定」しているということなのでしょう。それを付和雷同といいます。

 抑圧された感情が誰かに扇動されると、充満した怒りが火を噴くように嫌韓といってヘイトスピーチしています。まさに「抑圧移譲の論理」です。復讐感情が湧き上がって「上からの抑圧を下へ向かって」吐き出さなくてはバランスが取れないのでしょう。

 

欲情との結託か?

生の塵は日々降り積もり、回路の複雑化により「誤作動」を起こし、次いで予期せぬ回路の発生がサイバーな運動を起こしてしまったのでしょうか?

 2015年夏、「戦後70年談話」について寡黙を通した知識人が多かったように思います。

あながっても抗いきれない「戦争犠牲者の傷痕」というものを今日の〈かたち〉で永遠に留めるのでしょうか?

 以外なことに、安倍首相の姿勢について、「昭和10年代の軍事指導者に酷似していると指摘」したのが、保守リベラル派として知られる保阪正康氏でした。(2015年8月14日テレビ朝日報道ステーションにコメンテーターとして初登場)

 

さて、「過剰な危うさ」のなかにある「戦後70年」の夏ですが、左派リベラルとして知られる知識人の多くが沈黙しているように感じるのは、たんに私のアレルギー反応なのでしょうか?

20世紀の知識人の傾向とは、特定の集団や抵抗の「運動」に敏感であり、まるで宿弊でもあるかのように、三井三池における労働者争議、水俣の公害訴訟、三里塚の農民闘争、韓国の民主化運動、ベトナム戦争、中国の「文革」闘争、キューバ危機、沖縄の反基地闘争、アイヌの人々の闘いetc.威圧的な不当な世俗権力を告発し、批判してきました。

「岩波」を筆頭にする日本のリベラル左派も、結局は「戦後的啓蒙」のスタンスのなかで理念を語っていただけだったのでしょうか?あるいは、その「災厄」が自らの瀬戸際にまで襲ってくると杞憂しているのでしょうか?戦後の「進歩派」の正義論とは、そんなにも脆弱なものだったのでしょうか?

 それでは、つねに裸出されて剥奪され続けている社会的弱者は誰に助けを求めるのでしょうか?

 

「内に民権を争うよりも、外に国威を張れ」

『戦後70年』と当然のように話されていますが、実は、朝鮮人にとっては『戦後140年』なのです。

 かつて韓国民主化運動に馳せ参じた私は、幸運にも、多くの気概のある「在日朝鮮人・韓国人」一世の元闘志と話をすることができました。私が思わず弱音を吐くと、彼らは同じように宥めるように鷹揚にかまえて語るのでした。「いいかい、『百年の大計』と言うではないか。まぁ、100年はとうに過ぎてしまったが、もうすぐなのだよ。だから私は、老体に鞭打っても此処にやってきて仲間と待ちかねているんだよ。『恨100年』というだろう。辛抱強く闘うことだ。」と、ゆっくりと煙草の煙をくゆらせながら言うのでした。

 日本の侵略は、江華島事】から数えるのですから韓国人にとって日本帝国主義の侵略を批判する場合、それは140年】になります。

明治政府意図的な「征韓」外交戦略として、かねてより軍艦で威圧していたのですが、1875年9月20日、「軍艦雲揚号」から「漢江」に向かって空砲を撃ってきたのです。「漢江」とは、朝鮮の首府「漢城」に近いのですから、驚いた朝鮮が不法な領海侵犯にたいして砲撃を加えると、日本は待ってましたとばかりに、艦砲射撃を連発して、あげくには上陸して強盗を働き殺戮もして帰っていったのです。

 この計画的な武力挑発は、明治政府の思惑のとおり韓国政府を動揺させました。こうした智謀のもと、明治政府は大勢の軍隊を率いて特命大使〈黒田清隆〉を江華島の主邑(むら)である江華府に乗り込ませたのです。

こうして、朝鮮にとって最初の開国条約【日朝修好条約】が結ばれたのです。それは、アメリカが日本に強要した不平等条約によく似たものでした。

 ※これは、日本の軍事力が強かったという理由からではありません。実は、欧米諸国は【ヨーロッパ再編】(ベルリン会議三国同盟など)のために国内の再編成に忙殺されていたので、まずは後進国日本に「朝鮮開国」の先駆をつけさせたのです。それに乗じて後から「市場」に参入しようとの目論見がありました。

安倍晋三首相が崇める吉田松陰は極めて露骨に「侵亜」を主張していました。吉田松陰『幽因録』には、「蝦夷地開拓、琉球を吸収合併…北は、オホーツク・カムチャッカ、南は台湾・ルソン島まで植民地にするべき。」と書かれています。

 下級武士の出身者が多い明治政府は、実は我が身を振りかえるならば、真の解放を求める〈下から〉の(民衆の)突き上げが恐ろしくなってきました。そこで方針を変更して〈専制権力〉を固めていったのです。【1873年政変】から〈自由民権派〉は挫折・転向を迫られて降参してしまいました。もはや一丸となって「内に民権を争うよりも、外に国威を張れ」朝鮮侵略につき進んでいったのです。

 

リベラルにも垣間見える「新自由主義者との共犯関係

政治という修羅の欄外で、いかにもラディカルな批判を広げてみせるけれども、その中身は「ジャガイモ袋」。なわち泥がついて不揃いであるばかりではなく雑草さえも混在しているのだから、とうてい、そのまま食卓に出すわけにはいきません。

科学を信奉する「知識人」であれば、既存の資料を緻密に網羅したうえで、さらに厳密に検討して「批判研究」を構築していかなくてはならないと思うのですが、日本では欠陥のある抑圧的な権威筋に〈こびへつらい〉、奉仕するような知識人、言論人が何と溢れかえっていることでしょう。

 けれどもサイードやアドルノがいうように「知識人」として糧を得ている人は仮借なき厳格さをもって「最良のもの」を表出して言語化しなくてはならないはずです。それは、大学人はもとより、たとえボヘミアン的な評論家であろうとも、慎ましく素朴な人々を欺くとは許されないはずです。

 >「ジャーナリズムや、大学の専門家や、ご都合主義的な住民の一機関が垂れ流している『われわれ』と『彼ら』の対立」をあおりたてる決まり文句や常套的メタファーの類に染まることになる。」(エドワード・W・サイード『知識人とは何か』平凡社

日本の思想家も、多くは「西洋の覇権主義」への批判という脈略で〈自己〉対〈他者〉という二元論的仮定で語ることが多いように思います。

「自分からしか見ない、自分からしか聞かなかった」ので、安倍政権が、中国を事実上の敵国と思わせようとして扇動すると、普通の日本人は、いつの間にか「中国の経済的な興隆」を日本の存立を脅かす脅威としてみるようになったと思います。

 

批判することの欺瞞  

1995年、加藤典洋氏の『敗戦後論は喧しい論争の的となりました。加藤氏は、有限責任を負う必要性は認めるとしながらも、

>「『無限の恥じ入り』なる語り方には、『鳥肌が立つ』」と反発し、日本人に対する日本人自らによる弔いの必要を唱えました。

 と、『敗戦後論』を痛烈に批判していた高橋哲哉氏が1999年、『戦後責任論』講談社)を著しました。

>「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から、

>「帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである。」

 これは「歴史主体論争」とも呼ばれましたが、その後、「文学」、「哲学」の広範囲に及び、西谷修氏、竹田青嗣氏も、加藤氏の問題意識に「感応した。」と書くと、今度は、加藤典洋氏-竹田青嗣氏」路線・「柄谷行人氏-浅田彰氏」路線の対立が繰り返し取り上げられ、そこに「戦争責任論」とあいまって夥しい知識人が言説を立てていったのですが、いつの間にか発話を閉ざしてしまったようです。

 私は加藤典洋氏の、以下の言説をもっと知りたいと望んできました。

>「『戦後知識人』、『戦後民主主義』に思想表現の場を提供してきたのは、岩波書店の雑誌【世界】であるが、そこに至る過程で、執筆陣が明治生まれのリベラリストから革新派リベラリストへ『忍び足』でシフトした。」(筆者注:つまり保守派リベラリストから革新派リベラリストへとシフトした、と。)

 ところで、不可思議なこともありました。1981年、ヨーロッパで起こった反核運動を受けて中野孝次氏が中心になって反核アピール】を出し、日本の文学者たちに署名をよびかけたのですが、これへの署名を拒否した柄谷行人氏が、別にあえて【文学者の反戦声明】を出したのです。

国家主義」を痛烈に批判する柄谷氏の主張は、捻じれるように複雑なものであり、自分は「日本人」としてではなく、「日本国民」としてではなく、>「湾岸戦争は、『憲法違反』だから反対する。」というものでした。この対立に、今は亡き吉本隆明氏も参画することとなり、日本の文学者たちは暫く、「文学」と「政治」を巡って火花を散らしたのです。

こうして湾岸戦争後の批評空間」〈啓蒙派〉と〈文学派〉の対立といわれ、また、「共同体派」対「眩惑派」ポストモダン思想に依拠して論を張る)の論争と呼ばれ、長い歳月論争していたと記憶しています。

 在日韓国人である私は、日本の期待するリベラル左派知識人が、戦後70年という節目に、いかにして「文化的権威」を揺り動かす言説を提出するのかと注目していたのですが肩すかしをくらったようです。かれらの論争は、限りなく多彩な言語で語られながら、そのポイントは「動く」のであり、起点であり頂点でもあるかのようにブレ続け、「ずれゆき」ていくばかりだったのです。

 「言うだけなら、何とでも言える」でしょう。しかし、目の前に元「慰安婦が救済を求めてこちらを凝視しているのです。みる側に、その〈強度〉を感覚しうる潜在的な「眼」があるかどうかが問われているのです。慰安婦は」ただ立ち尽くす身体ではありません。異常に「こわばる」身体ではありません。その情念とは、ことさらにアグレッシヴなものであり、またリアルな実態なのです。

 

花は鐵路(てつろ)の盛り土の上にも咲く

1933年に起きた「滝川事件」とは、京都帝国大学法学部〈滝川幸辰教授〉への思想弾圧事件ですが、抗議の意思として、京大法学部は教授31名、副手の全てという「全教官」が辞表を提出。これに支持を表明して今度は法学部学生全員が退学届けを提出。

※1955年「第2次滝川事件」との捻じれた関係は丁寧に読むべきと思います。

 この波涛の中に文学部の大学院生、中井正一〉、〈久野収〉、〈花田清輝などが登場してきました。厳しい弾圧下にありながら彼らは、反戦・反ファシズムを標榜する雑誌メディア『学生評論』『世界文化』『土曜日』を発行していきました。例えば、刊行された『世界文化』は2000部が瞬く間に売れて、やがて8000部にまで伸びたのですが、創刊当初から京都府警察特高の厳しい監視の下にありましたから、検挙・逮捕がつづき廃刊にされてしまいました。

にもかかわらず、その残り火は残滓でありながらも消えることはありませんでした。若い知識人は来たるべき時に備えて「自由主義的文化運動」の命脈をなおも保ち続けたのです。

 そうして敗戦後1946年、思想の科学』の創刊に繋がっていきました。(編集者:鶴見和子氏、鶴見俊輔氏、武谷三男氏、武田清子氏、都留重人氏、丸山真男氏、渡辺慧氏)

 昔より、実証主義相対主義は、とかく衝突するのですが、科学である以上、「証拠」・「現実」において〈ひとつの共通の前提〉があります。このような「歴史意識」を巡って、「歴史像の歪み」を真正面にみて修正を迫っていく歴史家が戦後の日本に控えめに登場しました。

それは『在野の学としての日本民俗学です。1950年代、大学に正規の学科、研究科ができましたが、文化人類学とも重なるものであり、「発展段階論」の基盤をなす「進歩の観念」への懐疑からの問題提出でした。

21世紀の今日、ジェンダー問題】を言説するときの「視線の変動」として「文化的相対主義」は通過するべき道であると私は思っています。

※「慰安婦問題」とは、「国家権力」の争奪に関わる政治的なものであり、20世紀の被害者と犠牲者への責任が問われている見逃すことのできない問題なのですが、現在、大方の男性が「ジェンダー差別」と耳にしたとたんに怯むことが多いように見受けられます。

 この問題は、戦場で行われた「男」の〈支配欲動〉というものが鋭く糾弾されているのですが、その20世紀の「戦争責任」の問題究明という時、歴史研究者や社会学者にも混乱がみられます。それは、「ジェンダー差別」が、ジェンダー・ステレオタイプの氾濫のなかで、しばしば語り手の独断論から、セクシュアリティをめぐるが「屈折・タブー視・抑圧」されてきたからにほかなりません。

 戦場という狂気の沙汰は、人間を救いがたい耽溺状態に貶めていきます。銃剣をふるう本人でさえ、連れられていくように黙々と前進するのです。軍人の本懐は、「たぎりたつ血」のシンボルに結ばれた戦闘で死ぬことだと頭にたたきこまれていますから、兵士たちは血みどろの「殲滅労働」を強いられても、いつのまにか諦念して思考回路も壊れてしまって判断力を失っています。

 

「通念」の囚人から解き放たれるために

「歴史意識」とは、もとより歴史学の専門家の専有物ではないとの異議申し立ても含まれています。

>「失われたかにみえる人と人とのつながりを、もっと深いところで回復したい」との切望から繰り広げられていきましたが、

>「これまで衰え滅びゆくものとして捨てて顧みられなかった人々の生活そのものの中に生きる知恵をもくみつくさなくては…略」(『日本中世の非農業民と天皇岩波書店1984年)

 1980年代、「国際化」といった合言葉のなかで「他者」、「異文化」などの用語が乱舞するようになりましたが、その実、「外」というとき、日本による被植民地域の人々から〈膨はい〉として起きてきた「韓国独立記念館」や「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」について、またマレーシア各地「殉難華僑追悼碑」について、日本人の大半はまったく知りません。

そのような無知な日本人がどのように「自画像」を描くのか!という自らを射ぬく眼差しから、実は、多くの「人間の仕事」が為されています。

・『日本の社会史』全八冊(『岩波書店』:朝尾直弘・網谷善彦・山口啓二・吉田孝編)

・『アジアのなかの日本史』全六冊(『東京大学出版会』1992~1993年。荒野泰典・石井正敏・村井章介

『岩波講座近代日本と植民地』全八冊(1992~1993年。大江志乃夫・浅田喬二・三谷太一郎・後藤乾一、他)

・『前近代の天皇』全5冊(青木書店1992年、石上英一・高橋利彦・永原慶二水林彪村井章介他)

 

いかに文化的権威を揺り動かす言説が提出できるか

私は、SEALDsの大衆的感情にたいして拍手喝采しています。運動は、日毎に膨張していき、今日では、大きな存在になりましたが、そもそもは、「騒憂」という〈半意識的集合体〉であったとように思います。これがSNSというツールによって、悪戯に歪曲された感があるのではと思います。

 【SEALD】においては、「集合心性」というものが掘り下げて検討される必要があると思っています。初め「純粋状態」であった「群衆心理」が燃え上がって一点にまとまって、突然「集合体」へと変容してきたのです。やがては、そのなかに《心感染》が起きて「結晶体」をつくっていくのでしょう。知識に乏しい、判断力に欠ける若年層が無自覚なまま便利に利用されはしないかと、危惧してもいます。

 ただ、彼ら、彼女らには、60年安保、70年安保には見られなかった「個性」があります。

一人一人が「個として尊重される」ことを必要条件として主張しているとは括目するべき点と思います。

 自然発生的に誕生したともいえる【SEALD】ですが、深刻な問題も内包しているかもしれません。その起源のために、運動が膨張していくなかで否応なく指導者的な人物が現れてくるだろうと思います。

若者たちは、無私の精神や真面目な信念から「公益を守りたい」一心で犠牲を払ってでも集っているのですが、場が「夜の集会」というものが、彼らの内に「無意識の《集合的記憶》」というものを呼び起こしていきます。ここに【情動と『群衆状態』】を読まなくてはならないと思います。

 「運動」のなかには、「腐敗分子」が少なからず紛れ込んでいるものです。そもそも、情動によって膨張したのですから「群衆」のなかの大多数には、人間の性(さが)ともいえる「虚栄心」、「ナルシシズム」が動機になっている場合も多いと思います。

 また、このように膨張して「数」を集めると、否応なく、内部にはプロパカンダが権威を持っていくことになります。そうして「ためらう者」に対してさえも半強制的に「ある種の行動」へ促していくという《圧力》が生じてきます。政治運動ですから、「硬直化したドグマに取り込まれる危険」がつきまとうのは免れません。これは、日本の【SEALD】現象に特有なことではないと思います。世界中の熱狂する集団に起きています。

 多くの「知識人」が冷やかな視線を浴びせて、「知識」ある者として警鐘をならしていますが、彼ら、彼女らは、「日本敗戦後の伝統的知識人」の感性の欠如に対して健康な厳しい批判をもっているように思います。

彼らの発話は、未熟なために、その自然発生性から「這い回っている」ような「知の分裂」でもあるように見る人がいますが、そのような脆弱な部分とは、〈運動の萌芽〉においては不可避なものといえるのではないでしょうか?

 確かに、デモを拡散しているSNSというツールには危ない側面があると思います。これまで「知識人」は学問して、一応、「言葉」を論理的に用意してから発言していました。そこに「議論」「論争」というものが起こったのですが、SNSとは便利が過ぎて、思考を深めることなく衝動的に発話を続けます。しかも連鎖して累積過剰していきます。

誰もかれもが日常的に囚われているかのような「SNS」というツールの活用によるコミニュケーションでは、目を覆いたい、耳を覆いたい「知性の衰退」が起きているようにも感じます。それでは、弱いものが明らかに「割を食う」ことになっています。その場の思いつきや感情が連結されて、炎上さえするという危険に対して「幼い者」の場合、を着て防御することができるのでしょうか?

【SEALD】は、流動しています。伝統的知識人が、批判するならば、「日本の左派の運動」が、その権力構造によって、どのように生み出され、制約されてきたかという脈略まで明らかにして、そうして相対的に批判しなくてはならないと思います。

 

 知識人の感性の欠如と「実践の哲学」

マルクスは、プロレタリアート」の解放こそが人間解放であり、そのためには「哲学」との結合が必須であると書いています。

 初期マルクスの思想的先行者であるブルーノ・バウアー(青年ヘーゲル派)は、1848年三月革命が起きたとき、自らの「大衆論」において

>「大衆は彼ら固有の鉄面皮、浅薄、自己満足のなかで自分たちこそ、なお今も進歩の尖端に立っていると信じこんでいたのであるが、その彼らこそ進歩の主要な敵なのだということを証明してやるためには、意味はないにしても彼ら自身には思ってもみない一撃を加えてやることが必要であった。」

 と書きました。そのショッキングな切り口は大きな反響を呼んだのですが、マルクスは、なぜでも、ドイツ的思弁の最高峰をゆくブルーノ・バウアーを粉砕しなくてはならないと考えるようになりました。そこで〈エンゲルス〉と共同労作して書かれた本が『聖家族』です。

 これは、驕慢からの対抗などではありません。マルクスは、まさにブルーノ・バウアー批判に仮託して自らの自己意識にメスを入れたのです。これは、「自己欺瞞」というものを衆目の面前に晒して、厳しく自らを断罪するという書でした。マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』に後進性を読んで、それを踏み台にして「ドイツイデオロギーを書きました。

>「社会のあらゆる他の領域から解放し、それを通じて、社会のあらゆる他の領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域」1,S,390であるところの

 >「解放の頭脳は哲学であり、それの心臓はプロレタリアートである。哲学は、プロレタリアート揚棄することなしには実現されえず、プロレタリアートは哲学を実現することなしには揚棄されえない。」

揚棄-そのものとしては否定しながら、更に高い段階で生かすことの意。                                                                                                             

 以後、マルクスは、大衆をざっくばらんに「物質」と呼ぶようになり、そうしてプロレタリアート」という観念と格闘しつづけることになりました。

 

最期に、

塞がれた回路を再び〈交通〉させるためには、さらに〈横断〉して、もともとなかった回路まで、どんどん引いていかなくてはならないと思うのですが、いかがでしょうか?