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mopetto2012のブログ

朴裕河氏が『帝国の慰安婦』を著しました。私は、そこに差し出された「新しい偽善のかたち」から誤謬の一つ一つを拾いつつ、偏狭な理念に拒否を、さらなる抑圧に異議申し立てをしていくものです。

NO10 『いったい、誰のための記憶なのか、誰のために?』

今、わたしたちの目の前には 絶対の虚無が坐っています。

あの戦場の戦跡の岩や石に染みついた血液の色。

天と地の間を飛びまわる〈呼び声あるいは叫び声〉。

一面が血の海になった天と地の間の空中で

〈亡霊の大群〉が突きあい突き殺し合っています。

 

みじろぎもせずにじっと見ていると、精神的な失調が謀叛気をおこして

さくさくと裂かれていく私です。

 「私の確信は、どこへ行った?」

 

と、そこへ

 慈悲と寛容の念と平和と愛を、ほどよく調合して服用しなさいと〈高い命令〉が下されました。

 でも…しかし、だが…

脱臼したように項垂れているわたしの眼前に不気味な音を立てて、

隠されていた堆積物が、むっくりと起ち上がってきたのです。

 

それは、錆びた臙脂紫色のような苔むした門でした。

ずっと昔、 蹂躙されて、埋められて隠されたままだった門。

 

しずかに開いたかと思うと、北極光が射してきて、そうして

《幾千とも知れぬ悪魔が、幾万とも知れぬ悪魔が、数え切れぬ無数の悪魔》が現われて

「奇跡についての対話」をはじめたのです。

黙らせようにも黙りません。

 あらあら、あちらの方では過激派のスポークスマンが大っぴらに公開処刑しているではありませんか?

 あなただって、あの共同殺害には加担していますよ。

わたしの部屋のわたしの椅子に腰かけて、

テレビにスイッチ入れて、新聞を広げては、

ある判決やある処刑を見て、喝采しているではありませんか?

 

あなたはたんに聴衆であり、たんに読者であり、

事件から隔たりがある安全な場所にいるのだから、責任は一切問われないと確信しているのですね。

〈共犯意識〉がないと言ったって…あなたは、迫害する群衆の側で傍観していたのですよ。反撃されるなんて思いもよらずに…。

※《幾千とも知れぬ悪魔が…》―ペルシア宗教の経典『ゼンドアベダ』から「古代ペルシア人たちの悪魔の軍隊」から引用。

※「奇跡についての対話」―詩篇第三篇『敵我をなやます』から引用。>「エホバよ、我は義しく行い居るにもかかわらず我われにあたする者ものの数増し加わりていかに蔓延はびこれるや、実に我われにさからひて起おこりたつもの多おほし。かくして我は四方より迫められて今まさに艱難の絶頂に立ちつつあり」

 

もはや、コミュニケーションは不能になったか?

1965年6月22日の前日の21日。その静けさに私は慄然としました。日本のマスコミは、韓国の期待を拒絶するかのように少しも騒ぎ立てていません。早朝から、新聞、テレビニュース、インターネット、ソーシャルメディアを眺めまわしましたが、決定的な局面は何ひとつ起きてはいませんでした。

 そうして【国交正常化50周年】の節目の日、「日韓」の両首脳が顔を合わせる式典はありませんでした。東京、ソウルにおいて別々に開かれた式典への出席は瀬戸際まで発表されず、見るからに土壇場で俄作りに演出されたとの印象は拭えません。好意的な注釈者たちのコメントは、いずれも内実の緊張をしのばせていました。韓国尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は、22日、NHKのインタビューに応えて、

>「『明確に解決できれば、再び論じる理由はない』と述べ、今後の政府間協議で解決策に合意することができれば、それを最終決着とし、再び提起することはないという考えを示しました。」

 

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150622/k10010123841000.html

 

安倍晋三首相は22日の演説で、>「我々は多くの戦略的利益を共有している。現在の北東アジア情勢に鑑かんがみれば」必要であり、だからと、朴大統領に「関係改善への努力」を呼びかけました。

ところで、6月18日安倍首相は、その前提条件として、

日本大使館前で行ってきた水曜集会の中断と少女像の撤去などを要求」していたのですから本心が透けて見えます。自身は、しばしば報道機関に対してクレームをつけ、国会にて批判されても威風堂々と言論の自由だ」と弁解していたのですが、他国の表現の自由には羞恥心もなく踏み込んでいくようです。 

 http://japan.hani.co.kr/arti/politics

また、2012年3月、佐々江賢一郎・日本外務省事務次官が韓国政府に提示したとされる「佐々江案」を基軸として話し合われたが…「佐々江案+αではなく「佐々江案-αにまで下げられていました。

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21059.html

 翌23日、韓国ミン・ギョンウク大統領府報道官のブリーフィングでの発言を見るならば、お互いの疑心暗鬼が見えてきます。

>「慰安婦問題と関連しても『答えが出てくるまでに時間がかかるだろう』とし、行き過ぎた楽観論を警戒した。」

 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21115.html

 

【日本外務省】公式見解は以下です。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000033344.pdf

※過去「韓国は日本にとって基本的価値を共有する重要な隣国」と表現されていましたが、2015年2月「日韓両国は最も重要な隣国同士」と変更されました。すかさず、韓国外務省は懸念を表明。

 2015年4月29日、訪米した安倍晋三首相は、『米議会上下両院合同会議』で演説しましたが、それは、speechではなく、“address”という特別な待遇でした。

戦後70年という節目に初めて実現する安倍首相の両院合同会議の演説(address)は、世界が注目する演説だったのです。

http://www.nippon.com/ja/features/h00106/

その日が、昭和天皇誕生日の日とは偶然だったのでしょうか?カンニングペーパーに目を落としながら、シャチコチバって演説した安倍首相でしたが、筆頭の言葉は、祖父岸信介を讃えるものでした。*注下記

 もちろん、安倍首相【米国議会演説】に関しても、韓国外交部スポークスマンは、間髪入れずに抗議の声明を発表。

>「韓国政府は,今回の安倍総理の米議会演説が,正しい歴史認識を通じて周辺国との真の和解と協力をなすことができる転換点になり得たにもかかわらず,そのような認識も,真の謝罪もなかったことを非常に遺憾に考える。」

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015043000677&g=pol

※これについて、韓国のネットユーザーはさまざまなコメントを寄せています。>「また遺憾?ほかに言うことはないの?」、 >「『遺憾だ、非常に遺憾だ、強力な遺憾を表明する』この3パターンしか聞いたことがない」etc.

多くの人々が、すでに知っていると思いつつですがご紹介させていただきます。以下の記事は丁寧な画像入りですから(長文)、是非、ご一読を!

http://newskey20xx.net/blog-entry-221.html

 ※上は、偶然辿りつたのですが捧腹絶倒でした。粋な創り。読み終えて、世の中には、名無しのままこのように善行を為す人がいると知り頭を垂れました。

 敗戦後日本70年目の演説は、もちろん慰安婦問題」が中心点ではないと思います。今日も澎湃(ほうはい)たる波浪のように消えることがなかった日本被植民地、被占領地の「声」が聞えてきます。

アジア各地には、韓国の【独立記念館】、中国の【侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館】マレイシア各地に建設されている【殉難華僑追悼碑】他が傲然屹立しています。また日本国内にも犠牲になった無辜の人々を悼む記念碑が立っています。

かつて後進国だった日本がUSA、EUと並んで世界経済三極の一つを占めた頃、新しい衣装の身づくろいにばかり熱心なので、日米財界人会議(1971年)では日本株式会社』と皮肉ったのですが(『戦後史大事典』所収「日本株式会社論」:三省堂1991年)と痛烈に揶揄された日本が54年ぶりの演説の機会に、またもや【8・15】を凝視しないままに終わってしまいました。

*注 「新しい歴史教科書」に最も深く関与しているのが安倍晋三首相ですが、第二次安倍内閣は、祖父岸信介が憑依したかのようです。岸信介は、東條英機内閣の重要閣僚であったことからA級戦犯被疑者だったのですが、不起訴のまま無罪放免となりました。そうして有り得ない快挙なのですが、57年閣総理大臣に就任したのです。早速、日米安保条約強行採決。首相退陣後は《満州人脈》椎名悦三郎、瀬島龍三、笹川良一児玉誉士夫らと【国際勝共連合】を結成して気炎を上げていました。 

 

慰安婦』の拒絶とは峻厳なるものです

かねてより、慰安婦」と支援者は、「過去の歴史問題を解決しなければ、韓日の共存もない」と訴えてきました。

しかし、6月22日の記念式典には滑り込みセーフの妥協策が露わとなって、懸念と抗議の声が発せられています。

2015年6月23日、慰安婦被害者たち、慰安婦問題解決のために運動をしてきた『韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)』、『東アジアの平和活動を行う日韓市民宣言実践協議会』は、ソウル〈駐韓日本大使館の前で記者会見を開き、「慰安婦問題は、日本が責任を認めて公式謝罪や法的賠償を行い、教科書に記録するとともに再発防止を約束するなどを通じて解決しなければならない」と主張しました。

 

会見に参加した慰安婦被害者キム・ボクドンさんは

>「朴大統領は問題を誤魔化すことなく、慰安婦被害など過去の歴史が清算されるように力を合わせてもらいたい。日本政府も先祖が間違っているのに対して、言い訳せず、謝罪し、私たちの名誉も回復させてほしい」と力強く演説しました。

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21114.html

 2015年4月23日、参議院議員会館で行われた集会【安倍首相訪米前 緊急シンポジウム「慰安婦」問題、解決は可能だ!!】では、簡潔に提言されていました。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/243437

 

次のような被害回復措置をとることを求めています。

1)翻すことのできない明確で公式な方法で謝罪すること
2
)謝罪の証として被害者に賠償すること
3
)真相究明:日本政府保有資料の全面公開
       国内外でのさらなる資料調査
       国内外の被害者および関係者へのヒアリング
4
)再発防止措置:義務教育課程の教科書への記述を含む学校教育・社会教育の実施追悼事業の実施

誤った歴史認識に基づく公人の発言の禁止、および同様の発言への明確で公式な反駁等

 

人々に沁み込んでしまった錯覚を打ち砕くとは

 慰安婦」の嗟嘆の声が聞こえるでしょうか?先に突き刺さっていた棘は、いまだ疼いているというのに、さらに内奥めがけて、日本国は、またもや新しい棘で突き刺さってくるのです。

ふと、今日の日本の心を知ると、過去へは戻りえないという想念が過るでしょう。彼女たちは、またもや悲しみの気分に襲われています。

 糸は断ち切られました。が、そもそも、誰が?切ったのでしょうか?

朴裕河著『帝国の慰安婦』でも、しばしば批判の象徴として「拒絶」が何度もクローズアップされています。

さて、その「拒絶」について考察してみたいと思います。その言葉の響きは、議論を許さない、絶対的な厳命的なものであるとイメージさせます。1991年、火蓋を切った「慰安婦問題」ですが、その前までは捨て置かれていたのです。乗り越えがたい苦悩、耐えがたい貧しさを顧みなかったのは誰だったのでしょう。

 私は、ブログ記事NO1【朴裕河『帝国の慰安婦』批判(1)〈拒絶するという序列化のロジック〉】に書いています。

>「搾取され困窮するなかで、人は受動的・消極的に運命を受動するばかりではなく「反抗」するようにもなります。緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと運動する中で、被抑圧者の意識は訓練され結集され、そうして組織していくようになると思います。それは、生命衝動の激烈さとの《対決》という心理的体験を通じて獲得されていくものです。とはいえ、その意識性の萌芽を意識性にまで成長させるためには、何らかの意図的な働きかけがなくてはなりません。支援する「運動体」の助けがあればこそ、今日があると思います。」

  戦後、自分を縛っていたいくつもの錠前が外されたとはいっても、やはり「たった一人」で、寄る辺ない身の上で生きるしかなかったのです。

金学順さんが初めて告発したときの映像を観たことはあるでしょうか?溢れる泪を拭いもせずに慟哭しつつ、けれども控えめに自身の人生の一隅を語りました。

自らが選んだのではありませんでした。しかし、多数者には「まつろわない」、まったき他者として「一人きり」で生きねばならなかったのです。生存していたこと自体が奇跡のようなものです。

「運動」のなかで多勢無勢に人々が駆け寄ってきても、深い懐疑と不信の念がすぐに消えるものではありません。自らを欺かず、また欺かれないためには「一人きり」に留まろうとするでしょう。ナヌムの家のドキュメントを是非とも観てください。慰安婦たちは気難しいのです。

 

『国民基金』では、被害者の恨は晴れません。

これは、尹貞玉氏の言葉です。ことごとく誤解されて揶揄されてきました。その湧き出た、張り出した、無秩序にみえる上昇。

他者からの承認を求める人間の〈欲望〉は本源的に不均衡をはらんでいるのであり、優越者を追いつこうとします。慰安婦と支援の人々は乗り越えのために、時には過剰なほどの膨張をして世論に訴えもしました。

それは「慰安婦」を支援する韓国民衆が、身をもって寄り添ったとき、〈苦難時代の民族の象徴〉〈暗黒時代の歴史の主人公〉であるととらえるようになったからです。胸の奥深くにしまわれていた「自尊心と名誉の回復を願って止まない心を表出した言葉に、多くの人々は揺り動かされました。多分、「『国民基金』では、被害者の恨は晴れません。」との言葉を、韓国の民衆の多くは非難しないものと思います。

世直ししようとするのですから、それは、政治的なものにならざるを得ません

 朝日新聞は、精一杯の善意から数々の記事を掲載していますが、提言は以下に集約されていると思います。

>「偏狭なナショナリズムや勝ち負けを競うかのような不毛な対抗意識にとらわれている限り、政治と外交を縛る不毛の連鎖は、今後も断ち切れない。」

 前回、「民族」、「ナショナリズムについて若干書きました。今般、「ナショナリズム」を歴史の脈略で紐解かないまま短絡的に非難する傾向が強まってきたように感じます。そのパッションを、群れあって恨みをはらしたい「畜群本能」でもあるかのように先入観から発言しているようです。その先入観が偏見にまで固まっていった人もいます。
「何がそうさせるか」と思いを巡らせるたとき、日本が、隣国「韓国・朝鮮」の文化をあまりにも知っていないと思い至ります。それでは、例えば、キャンドルを手にした群衆の祝祭的なデモの心情は見ても見えないでしょう。

 

 韓国の「惻隠の情」について

東アジアの国々のなかで朝鮮は最も儒教的なですが、以外に知られていないようです。社会的弱者である慰安婦に寄り添うとは、「惻隠の情(そくいんのじょう)」からです。それは、東アジアの伝統において語られていた道徳、すなわち「道」と「道の力」としての「徳」についての思惟です。

 中国の儒家孟子道徳学説【四端説】は、朝鮮の人々の日々の暮らしのなかに今日でも息づいているといえます。

中国では明朝(1368~1644年)の忠臣が一掃された後でも、朝鮮の国王と延臣は明朝を崇拝し続けたのでした。

李朝の前は高麗王朝(918年~1392年)でした。高麗時代、政治理念は儒教したが、「仏教」を手厚く保護しまし、庶民にも普及していきましたから、朝鮮の文化の基層には実は仏教の「仁」があると理解しなければならないと思います。※ここでは紙幅の関係上省略しますが、『世界大百科事典13P164~166』に詳しいので是非ご参照ください)。儒教宇宙論とそれが意味するあらゆるものは、国家関係を含めて、朝鮮人にとって極めて神聖なものでした。朝鮮では、朝鮮通信使にみられるように、朝鮮の儒教の学問を日本人が羨望して求めてきたことが、新鮮な記憶としてあったのです。ですから、近代の日本が西洋を模倣しようとする試みを「嫌悪感」をもって見つめていたのは事実です。(問題だ!)

 

いずれ、記事として丁寧に書きますが、今回、急ぎ端的に例を述べたいと思います。それは、洞祭〈村まつりでの風刺性に富んだ仮面劇にみることができますし、また、孔玉振さんの一人唱舞劇『ピョンシンチュム(病身踊り)を通して知ることができます。

儒教に呪縛されていた李朝500年は、朱子学の教化を図ったのですが…民衆はスルリと抜けだして、祭りや民衆の広場で「仮面劇」という隠れ蓑を着て自由奔放に面白可笑しく両班階級を嘲弄しうっ憤晴らししたのです。登場人物はすべてがデフォルメされ、劇は視覚的に戯曲化されています。朝鮮には古くから「大路広路に歌え」という諺がありますが、それは広場で、共に悲しみも苦しみも陶酔したように歌い狂えば、民の慟哭はかぎりなく天空に飛翔していくというものです。

このような文化は日本には見られないと思われます。「日本の封建社会では、士族(武士)が支配権力を握って水も漏らさぬように民を管理監督していたからです。一方、朝鮮は「文人政治」であり、支配者たりうる根拠は「文の力」すなわち朱子学の学識の深さであると信じられていました。そうして何よりも「徳」が肝要とされていたのです。ことに為政者は「徳」を肝に銘じなければなりませんでした。庶民が祭りの仮面劇で両班デフォルメしたといっても目くじら立ててはならないのです。

 

【恨】とは、民衆の【恨の美学】

遠からず項を新しく立てて記事に書くつもりですが、日本ではとかく誤解されて喧しく揶揄される【恨】とは、民衆の【恨の美学】から理解をすすめていただきたいと望んでいます。

 「恨」とは、日本では怨むと同意語です。人から不利益を受けたとき、その人に対する不満や不快感を抱き続ける、復讐心を指します。

しかし、朝鮮の『恨』」とは、他者に向かうものではなく、むしろ自分に向けられるものです。不覚にも落ちてしまった無念さや悲哀を嘆き、何がそうさせたと自分で自分を打つものです無常観であり、また悲惨な境遇からの解放願望という昇華もあります。「歴史」でいうならば、帝国主義日本の悪辣な陰謀に対して無為無策だったことを悔恨して「二度と繰り返すまい」と誓いを立てたことを指すと思います。

もちろん、たんに不甲斐ない時分を自嘲して「恨」ということもあります。

因みに、「恨」は、한의と書きますし、「怨み・怨み」とは원한と書きます。「うらみ」から他者に対して刃を立てる場合は復讐心といいます。

ところで、【ウリ】との文言もひじょうに誤解されています。「嫌韓をいうとき嘲笑うようにバッシングされる言葉です。その出所が、韓国への留学組、または駐在者の経験測で語られていることが多く目を覆いたい惨状と思います。

韓国をエスノセントリズム」あるいは、「韓民族優越主義」と言いつのり、果てはウリナライズム』などと言ってのける人がいます。まさに「講釈師 見てきたような嘘をつき」「講釈師 扇で嘘を叩き出し」を連想し苦笑してしまいます。

凝集性の統一のシンボルのように「ウリ」が唱えられるようになったのは、まさに日本帝国主義時代でした。日本の苛烈な収奪、弾圧、暴力のなかでの同化政策に対して朝鮮の民衆はすべてが立ち上がって抗議しましたが、なかでも朝鮮語抹殺政策」は徹底したものであり、多くの朝鮮語学者が投獄、死刑の憂き目にあったのです。

このような文化運動における「民衆の蜂起」は、新たに項を立てて記事にしなくてはと考えています。紙幅の関係上、今回は、一点のみ記したいと思います。

日帝時代、学校の教科書から朝鮮語は削除され〈日本語常用〉を強要していましたが、1939年には、朝鮮語による一切の刊行物、新聞や雑誌が閉刊されてしまったのです。そのような不遇ななかで、朝鮮語学者を中心とする言論人、文人をふくむ知識人が総結集して朝鮮語研究会」をつくりました。このうねりは瞬く間に社会的脚光をあび、人々は「ウリ文化運動」と呼んで集い、支援していきました。

「ウリ」とは、そのような感情の昂揚感から共族感情へとまとまっていくなかで合言葉のように言われた言葉なのです。

そのような植民地支配下での絶え間ない民族の闘い」の歴史を紐解くと、目頭が熱くなってしまいます。ことに194210月、朝鮮語学会の幹部および編集委員、会員33名が拘禁され師と仰がれた2名が拷問によって獄死、他も1945年8月15日解放の日まで拘留されていたという惨い事実には胸を突かれました。

 ところが、光復節雲散霧消していた仲間たちは馳せ参じ、12月25日【ハングル記念日】を前にして、朝鮮語辞典は発刊されたのです。このようなうねりが朝鮮パッションなのです。

*ウキペディアにおける朝鮮(韓国)、中国に関する記事は目を覆いたい惨状ですが、薄い知識から「ハングル優越主義」を書いた御仁がいると知り、何をかいわんやと虚しくなります。

 ところで、作家、白楽晴氏は、文学活動において閉鎖的な民族主義へと流れ込む可能性を警戒し、つねに>「真摯な苦悩」を続けています。1960年代、市民文学論を提案した時から以下のように書いています。

>「リアリズムの本質を、社会と人間を見るある種の『円熟した観点』と、それに伴う『均衡』として把握」したい。(『民族文学と世界文学Ⅰ』P25

http://jp.changbi.com/?p=173

 

>「1987年の六月抗争以後の20数年の方が明白に「我々の時代」となるだろう。第三世界的認識』を盾に先進的な視角を確保することによって私たちの文学も世界文学の先頭隊列に合流することができることを想起しようとしていた。」

http://jp.changbi.com/?page=128&paged=22

 

 なぜ?挺対協の名称を変えないのか

日本のリベラルを自負する知識人たちが、鬼の首をとったかのように「なぜ?挺対協の名称を変えないのか」発言します。素朴な疑問であるかもしれません。これもまた、実は、「朝鮮の歴史」を丁寧に読むならば理解できるはずです。

挺身隊(女子挺身隊)とは、1944年8月【女子挺身勤労令】が制定されて以後、植民地朝鮮でも施行されたものです。1944年、名古屋の三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場」に動員された【半島女子挺身隊】の写真は、『進駐軍が写したフクオカ戦後写真集』(西図脇出版1983年)にも掲載されていました。戦後、その写真集から〈あどけない少女たち〉の顏写真を見た韓国人は皆々胸を突かれたてしまったのです。

実際、挺身隊として連れて行かれた少女のなかには音信不通になったままになったので、家族は解放後、諦めることなく探し続けていました。日本植民地統治下の朝鮮では、「挺身隊として徴集されると慰安婦にさせられる」と噂されていたこともあり、多くの人々は真相が明らかになるまで、慰安婦と挺身隊を混同していきました。

儒教の国、韓国では「売春婦」とは露骨に差別されるものであり、従軍慰安婦との呼び名を避けたとの意見もあります。また、アメリカ占領下において、アメリカ軍の性奴隷にされていた女性がいたのですが、韓国警察や韓国公務員は「挺身隊」と呼びました。尹貞玉氏は、1980年、従軍慰安婦の調査開始しジェンダーの視点」からの見直しを行った初めての韓国人知識人です。すでにアメリカ軍の悪行も調査していました。

1990年には、実態の大凡が見えてきましたが韓国においては軍隊の性奴隷を総じて「挺身隊」と呼び慣わしていたので【韓国挺身隊問題対策協議会】という名称を変更しませんでした。

日本軍慰安所では、実際に性病防止のために未婚の若い女性を探していたのは事実であり、連行時「処女供出」とも呼ばれたたとの証言も多く残されています。

 尹静慕著、小説『母・従軍慰安婦-母さんは『朝鮮ピー』と呼ばれた』(神戸学生・青年センター)は、日韓で大きな話題になりました。実は、92年刊行される前、82年、初版されていた本です。本の前書きに、以下のように書かれています。

「挺身隊慰安婦に関する、胸ふたぎ、血のわななく事実を整理した後…」

尹静慕氏は〈80年〉着手したといいます。その動機は、>「80年、冬ハンナム洞の飲み屋街を通りかかった時、一人の酒に酔った白人が小柄な韓国人女性の長い髪を無理矢理ひっぱていくのを目撃して、大きな衝撃を受けた。」と書かれています。

『朝鮮実録』ほか、新聞、歴史資料にあたって書いたそうです。「挺隊協」にも取材したようです。が、当時は限られた資料による以外になかったでしょう。故意に捏造したわけではありません。その時は、世界中が「慰安婦について知ってはいなかったのです。

事実として、元慰安婦には朝鮮人の若い女性が多かったと、戦後の証言者の多くが述べています。1980年には、花柳界の積極的予防法』(1939年、陸軍軍医少尉・麻生徹男)に、「衛生的なる共同便所」と書かれていたと韓国でも知られるようになっていました。
つまり、尹貞玉氏も、尹静慕氏も共にジェンダーの視点」から開始していたのです。

小説『母・従軍慰安婦-母さんは『朝鮮ピー』と呼ばれた』刊行のために骨折りした歴史家金英達氏は、後書き解説にて「歴史の暗部に証明を」と題して以下のように書いています。

>「朝鮮人女性慰安婦は、生き残って朝鮮に帰ることができた者も、そのあまりに凌辱的な体験のゆえに、かたく口を閉ざしている人がほとんどだ。また、朝鮮の儒教社会の貞操観念に呪縛されるなかで、故郷の家族のもとに帰ることもできなかった人が多い。どこからも謝罪も保障もなく、慰安所生活の中で身体をこわし、社会からも疎外されてきたのが、慰安婦の戦後であった」

 もちろん、歴史家として、以下のように釘を刺しています。

>「いずれにしても、歴史的事実としても問題状況においても、女子挺身隊と従軍慰安婦はまったく違うものであるから、両者をはきりと区別するために、言葉の混用はさけるべきである」

 私は【韓国挺身隊問題対策協議会】との名称に歴史を読みます。朝鮮における「女子挺身隊」との語彙は、その背後で働く諸力に気づくためにも消すことのできない言葉であるように私は思っています。まずは日本帝国主義の植民地支配があり、「戦場」という構造的暴力のなかで慰安婦問題をとらえたいのだと思います。そこには慰安婦を取り巻くあらゆるものを包括して、不体裁さえも「ありのままに語る」という潔さがあります。

 

 自己犠牲という行為をあえて引き受ける主体性

慰安婦と支援者は、自分たちが哀惜する死者を知っています。戦争の犠牲者のあらゆる死を悼んでいます。その連帯が、〈一つの核〉をつくって四半世紀以上、内的な親密性をもって、忍耐しながら期待を抱きながら運動は継続してきたのです。時には、「ゆらぎ」という不均衡状態におちいったことがあったかもしれません。

 世の中の人々は、慰安婦〈呼び声あるいは叫び声〉を、さも喧噪でもあるかのように非難します。が、ひとり一人は、この出来事について、熟慮してきたのであり、すぐには現われない遠くにある目標に向かってそれぞれの流儀で闘ってきたのですから、静かですし、実は孤独だと思います。(たった一人で耐えていた時は、精神のバランスが硬化して、もはや選択の自由を喪失していました。)

朴裕河『帝国の慰安婦には、ことに【第4部 第2章】P297~において、ひたすらに、>「日本政府が作った基金への批判と攻撃」を続ける《挺対協》」と批判し、>「慰安婦は「韓国」の自尊心のために利用されてきた」と書いています。

 >「韓国社会や支援団体は、あるがままの当事者よりも、当事者を通して、独立的で誇り高い朝鮮やその構成員としての自分たちを見出そうとしてきた。」167

何のために知識の乏しい日本で刊行したのでしょうか?韓国においては総スカンを食らっているのに、日本では増刷が続き、もはや8万部突破したといいます。

ここで、慰安婦を支援し続けた人々が、断じて自らの利益のために利用してきたのではないと主張するために「運動」と支援について考察してみたいと思います。

支援とは当該の「自己決定を支援する」のがモットーと考えますが、現場ではしばしば「自己決定の意味について過大な拡張」が起きたり、それへの反発として「限定」が起きたりします。私は、ブログ記事NO1【朴裕河『帝国の慰安婦』批判(1)〈拒絶するという序列化のロジック〉】にて大沼保昭氏を批判して「恩恵的関係意識」について書きました。あくまでも与えるという「所与の関係」憐憫の情とは、

>「警戒するべきナルシシズムです。なぜなら、その疾しい良心が見咎められると忽ちのうちに「差別」に転じてしまうからです。」と。

 「運動」において協同していくとき、人間のナルシシズムの芯という業の深さは避けて通ることができないと思います。そこには本性的な「利己主義と利他主義の対立が生じてくるのです。

ここで唐突に自らの苦い体験を記したいと思います。しばしば「運動」には知識人がやってきます。そもそもは援助思想が動機であったと思われますが、多くの人は現場で額に汗して働くことはありません。その人は、身をさらさないまでも後方から「知識」によって支援するというわけです。やがてその観察と実験の記録を自らの栄達の為に「論文」に仕上げていきます。

功を為し名を遂げて大学教授にまでなると、多忙のためにか姿を見せなくなります。しかしまた、「運動の虚偽と虚構」とは、裾野で働く無名の支援者の思想の質にもみることができます。「運動体」としても、その知識人の名声や経歴を利用して化粧して窮地から抜け出そうとの計算するのです。互いにかすめとりながら大きくなっていこうとするわけです。(ひじょうに稀には高貴な真実な人がいました。)

 どのような組織も長い歳月を越えるうちに形骸化していき内部に「権力支配関係」を生み出してしまうのかもしれません。だからそこに淘汰が起きます。その権力関係・抑圧・排除に連なる危険性はやがては内部分裂を引き起こし、そうして、その組織は内部から瓦解していくことになるのです。(あるいは、支援者がみな立ち去って有名無実な組織になると思います。)

 長々と書きましたが、韓国の「慰安婦の支援が1990年以降、紆余曲折はありながらも今日まで断絶されることがなかったとは驚異ともいえるのです。これは、韓国の民衆の「意志」であると思います。尊敬に値します。

 

〈一つの核〉をつくって連帯しつづけるということ

虚偽や虚飾があれば、長続きはしないものです。慰安婦の支援の運動に連なる人々は、《正義》が行われることを望んで、「何かを育てる」ために働いたのですが、

そこには「配慮」―まだ表現されていない欲求への反応として「応答」していたのです。そこには、《応答する》《責任に応える》という用意がいつもできていたのです。

 何よりも、相互のあいだに「尊敬」があったと思います。尊敬は、語源respicereに従うならば、人をあるがままに見、その特異な個性を知って、その人自身としてありのままに成長し発達するべきであるという関心を示しているというのが前提になります。

誰かを支配し、搾取することなしに〈独立を成就〉した人を尊敬するのですから、私に仕えるためにではなく、自分自身の方法で成長し発達することを望む行為を尊敬するといいます。(エーリッヒ・フロム愛の理論』を援用)

エーリッヒ・フロムは、配慮と責任とは、知識によって導かれるといい、愛の一局面をなすところの知識は対象にとどまることなく中核にまで侵入するといいます。

私は、韓国の『韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)』、『東アジアの平和活動を行う日韓市民宣言実践協議会』、そして日本の「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」と「日本の戦争責任資料センター」「女たちの戦争と平和資料館」(wamが長い歳月、運動を継続してきたとは、互いの間に「尊敬」があるからだと思っています。

ブログNO1『朴裕河批判』にも書きましたが、

>「搾取され困窮するなかで、人は受動的・消極的に運命を受動するばかりではなく『反抗』するようにもなります。緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと運動する中で、被抑圧者の意識は訓練され結集され、そうして組織していくようになると思います。それは、生命衝動の激烈さとの《対決》という心理的体験を通じて獲得されていくものです。とはいえ、その意識性の萌芽を「意識性」にまで成長させるためには、何らかの意図的な働きかけがなくてはなりません。支援する「運動体」の助けがあればこそ、今日があると思います。」

 

ヴェールに霞むように輪郭が見えなくなっていく戦争の「記録」が多くあります。

語り得ぬものを日本の短歌に読んだ詩人〈川野順〉氏がいます。1990年、静かに亡くなりました。川野さんは1995年、韓国慶尚北道に生まれましたが、音楽家になることをめざして1933年渡日しました。18歳でした。

ところが不運にも37年ハンセン病に罹患しました。そうして療養所に強制的に送られた後、日本政府の施策によって外に出ることはありませんでした。(患者を終身強制隔離して絶滅させようという政策がとられていました。)

・日本の風土に骨を埋むべく決めたる今も母国を恋えり

・うつしみの心の奥にて泣いている母国を抱き安住日本

・劣等感捨てよと手紙給いたり答えん手紙のまとまり難し

・出逢いたる人らはみんな日本人病み継ぐ今日に沁みておもほゆ

・韓国名堂々と名のらぬを責むる前に君よ胸に手をおきて考えてみよ

・韓国名馴染まぬ土地にくらし居て日本名使う縋るごとくに

〈晩年の作品から〉

・しおれしを甦らせて降る雨は天の恵みというにふさわし

 かつて日本人のなかには我を忘れたように、詩人川田順〉氏の作品を編んで出版した人がいました。きっと、今でも、ひそかに生き続けていると思います。

※膨大な数の作品のなかで、「韓国」や「祖国」に触れる歌は皆無に近く稀です。が、この紙上ではあえて川田氏の「民族」への慕情があふれる作品を探して抜粋してみました。

 1995年、朝鮮人強制連行の真相を究明する全国大会」会場での出来事でした。見知らぬ一人の男性が駆け寄ってきたのです。拙い私の発言に感動したといい熱く手を握ってきました。そうして連絡先を尋ねられました。と、数日後、ビデオテープが一本送られてきました。タイトルが丁寧に毛筆にて書かれています。

『消えた51号棟』。観ると、1994年11月17日テレビ朝日報道ステーションで放映されたドキュメントでした。三井石炭鉱業馬渡社宅解体に長年反対し続けてきた裵東録(ペ・トンノク)さんの闘いの記録でした。

戦前、父親は三井三池炭鉱に強制連行され強制労働させられました。その在日朝鮮人の住居が「51号棟」です。地域の反対運動を無視して「三井三池」は解体を決行しました。交渉時、あまりに官僚的な態度で沈黙するばかりの相手方に対して、とうとう裵さんのオモニが、上手とはいえない日本語で「このままじゃ苦しくて生きられないよ」と思わずテーブルを叩いて抗議しています。(日本語が不得手な外国人が、憤る感情を伝えようとするとき、ボキャブラリーが少ないために表現は直截的で激しいものになります。)

裵さんは、「1945年以前の事実を隠蔽して風化させようというんですか!」と強く抗議しましたが…暖簾に腕押しでしかありませんでした。その時、司会者、久米宏氏は、真面目に真摯に事柄を取り上げていました。2015年の今日、このようなテレビ報道を観ることは不可能です。無念に思います。

 今回のタイトルは、『いったい、誰のための記憶なのか、誰のために?』です。

私には、まだまだ知らない事実が途方もなくあります。ひょんなことから「知らないということを知る」と、〈ほんとう〉を知ることの難しさを痛感しますが、聞こえないものに耳を澄ませて、捉えがたいものに触れようと努めたいと思っています。

(続)