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mopetto2012のブログ

朴裕河氏が『帝国の慰安婦』を著しました。私は、そこに差し出された「新しい偽善のかたち」から誤謬の一つ一つを拾いつつ、偏狭な理念に拒否を、さらなる抑圧に異議申し立てをしていくものです。

朴裕河批判8『われら廉直なる者』―善か?愚か?

【米歴史研究者らの声明】201557日発表)

それは、晩鐘の祈りのなかで唱えられた「道徳」のように聞こえます。

溢れるばかりの自己の情感を抑制しつつ、厳かに立って、施し与えるかのように「和解と赦し」を勧めています。

その真髄は高潔であるのでしょう。文面は、温厚篤実です。誰もが好感をもつ「善良愛すべき」ものです。

 しかし、私は、以下の一文のために、〈有難い薬〉でもあるかのように飲み干すわけにはいきません。

 >「その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる『慰安婦』制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」

 「日本・韓国・中国」が並置されています。さて、この三者は、望ましい類似になり得るのでしょうか。その背景と実相が著しく違う以上、その「諸原因」をも考慮しなければならないはずです。人文科学の専門家が、なぜ?複雑な「事実」を折りたたんでしまったのでしょうか?

 案の定、同日5月7日東洋経済編集局記者の福田恵介氏は、「日米歴史家、韓国メディアの“変化球”に困惑 なぜ『55日の日米声明』をネジ曲げるのか」と題して記事に書きました。

>「声明は韓国の民族主義的言辞をも戒めながら、安倍首相の良心に誠実に訴え、平和や人権・民主主義という価値を追求してきた日本がこの問題の解決を主導すべきであり、また今年は絶好の機会と訴えている。」

 http://toyokeizai.net/articles/-/68890

 当然のこと、インターネットやソーシャルメディアでは、自由史観論者、右翼が、有象無象に「韓国と中国の民族主義的な暴言」の一句のみを取り上げて奇声を上げています。

 

 新しい衣装には、新しい仮面で

6月5日、NHKニュース「おはよう日本を観たとき、さもありなんと悄然としてしまいました。

【“歴史認識”声明が問いかけるものは】と題して、一部分を抜き出してクローズアップしていました。

>「この(慰安婦)問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」

 歴史家秦郁彦氏も登場し、>「今回の声明に賛同できない」と表明しています。

 ハーバード大学 アンドルー・ゴードン教授は、インタビューに答えて

>「私たちが重要だと考えたのは、歴史評価における偏狭なナショナリズムや言論に対する制限が、日本だけの問題ではないということです。」

 と発言しました。と、そこに、画像として、朴裕河著『帝国の慰安婦がアップされたのです。テロップとして20万人が強制連行実態と異なる」→「裁判所が本の出版差し止め」と映し出されていました。

http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/06/0605.html

 筆者のブログのテーマは、朴裕河著『帝国の慰安婦』批判です。ここにも、朴氏が、現代日本の社会的志向を読んだうえで、いかにも「果実」を取り出すように『慰安婦問題』を提出していたことが伺えます。

>「挺対協の主な要求である日本の法的賠償、国会決議による謝罪と賠償は事実上実現可能性がなく、要求の根拠も不十分だと指摘した」東亜日報 朴裕河2013930日)

朴氏の主張は、「道義的責任」を認めながらも決して「法的責任」を認めようとしないのですが、これは、大沼保昭氏にぴたりと一致するものです。」

>「過剰なナショナリズムをただそうとしなかった多くの韓国知識人。韓国側の頑な償い拒否に対して(被害者を心理的に抑圧する独善的要素があることを)批判しようとしなかった日本の「左派」や「リベラル」な知識人とメディア。」

 と批判しながら、2013年5月25日、江川昭子氏のインタビューで自身の心情を以下のように吐露しています。

>「真摯に謝り、精一杯の誠意を示した。なのに、ゼロ回答か…」という失望感が広がりました。そこから、「中韓に謝ってもいいことない。かえって居丈高な態度をとられるじゃないか。欧米もなんだ。自分たちだって植民地支配をしていたし、性の問題で後ろめたいことがあるのに、善人ぶってお説教か」という怒りが出てきた。」

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130525-00025178/

 朴裕河氏とは、「植民地支配」が生み出した落とし子なのでしょうか。『帝国の慰安婦は、その途方もない誤謬のために多くの批判を受けているのですが、対して、ご当人は、魔女裁判にでも遭っているかのようにツイッターで呟いていました。そうして、なぜなのか、精力的に日本各地にて講演活動を展開しています。また、居住する韓国ではなくニッポンにて精力的に「反論」を展開しています。私は、そこに人間の下に潜んでいる怪異の貌というものを見てしまいます。「誹られた」とたじろぎ…いったん心の内側にひっこんだかと思うと、状況の変化を読んで、さらに武装してそろりそろりと踏み込んでくるのです。実に胆力のある人物といえます。

 

「歴史の真摯さ」と知識人

さて、6月5日朝日新聞朝刊【オピニオン】にて、【米歴史研究者らの声明】187名のメンバーでもある〈日本近現代史〉の学者キャロル・グラックさんが、インタビューに答えて「米歴史家らの」の懸念について語っていました。筆頭、大きく『史実は動かない 慰安婦への視点 現在の価値観で』と題されています。

 インタビューに応えて、>「史実は動きません」と実に明快に語っていますが、これは、著書『歴史で考える』岩波書店2007年)からわかりますが、>「歴史的プロセスにまつわる複雑さをけっして捨象することなく」また、>「抑圧するさまざまな記憶の配置」の複雑さといったものを捨象することなく描き出さなければならないとしています。

エドワード・サイードと親しかったキャロルさんは、「学問」と「実践」との間に横たわる溝についても繊細な検討を怠りません。さまざまな記憶が響きあうのを聴きながら、一つの苦難の出来事を、さらに他の苦難の出来事と結びつけて、《未来を記憶する》必要を唱えています。

※キャロル・グラックさんは、米大統領選においてオバマ氏の対日政策顧問に名を連ねた学者でもありますが、米大統領選挙に勝利したバラク・オバマの成功が「歴史的」と表現されることには警鐘を鳴らしてもいます。壮大で誇張されたレトリックに目くらませされる普通の人々をいつも杞憂しているようです。

敬念の情を抱いているキャロル・グラック氏ですが、文中、私に突き刺さってくる棘があります。

Q―声明では日本だけでなく、韓国や中国の「民族主義的な暴言」についても指摘しました。

>「この表現は、最初の草稿から入っていました。いずれの国もナショナリズムに歴史を利用しています。国内向けの行動ですが、大変に危険です。だからこそ海外の研究者や政治家がこの問題を気にしているのです。東アジアが歴史問題をめぐって不要な対立に陥ることは誰も望んでいません」

 キャロル・グラックさんは、「突き詰めていくならば、蓋然性の高い真実はある」として実証主義にこだわる歴史家であると思います。ここでは、1990年以降の「慰安婦」の闘いを支援する「運動体」を非難したわけではなく、国家主義による国家イデオロギーを強く批判していると、著作に親しんでいる人にはわかると思います。

 しかし、マスメディアにおいても【米国の日本研究者らの声明文】にある、一句、>「韓国や中国の『民族主義的な暴言』」との表現が闊歩しているのを見るとき、被植民地国、また被占領地の人々は敏感にならざるを得ません。

 なぜなら、例えば、朝日新聞慰安婦問題」からつくられた【第三委員会検証報告】にあった北岡伸一氏の「韓国における過激な慰安婦問題批判に弾みをつけ、さらに過激化させた」との言説がオーバーラップしてくるからです。

また、今般の櫻井良子氏の暴言、また政治家の妄言etc.には、敗戦後日本の〈指導者〉と〈大衆〉の関係に、相も変わらず「二重の錯誤・悲劇」が内包されていることを知っています。私は深い懐疑と不信感を抱いてしまいます。

 日本の政治指導者は、表で「戦後50年国会決議」を披露し、裏で「自虐史観」批判と叫びながら「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」「南京大虐殺はなかった」と喧伝してきました。(翌年「新しい歴史教科書をつくる会」を発足)※そもそも、「戦後50年国会決議」の内容とは、過去の欧米列強の植民地争奪戦をあげて、日本の〈侵略〉は止むを得ないものであったと矮小化したものであり、そこには真の反省が伺えない。それは「儀礼的に謝った」というポーズにも読めるものでした。

 ナショナリズム】は、いつも喧々ごうごうとして語られる

さて、日本では実感として日常的に「民族」なるものを意識する人は少ないと思います。しかし、のりこえ難い苦悩、耐えがたい貧しさに追い詰められた被植民地、被占領地の人々は、植民地主義という侵略・支配の蛮行に対して、「力」として対抗するためには「民族」がシンボルになるしかありませんでした。

 私は、ブログNO1【朴裕河『帝国の慰安婦』を批判する(1)「拒絶するという序列化のロジック」】に、ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』を援用して「民族主義」について書きました。

 それは、世界システム論から「巨視的歴史理論」で読むならば、後発の日本国は植民地拡張を急ぐために、上からのナショナリズム操作「逆転した愛国主義」を創造する以外にはなかったこと。その必要から日本は《ネイション》としての結束の強化をはかり、(自らのネイションに対する愛情を、他国への敵対意識に転化させてネイションとしての結束意識を強化する)いっそう推進していったこと。そうして、急進的な社会変革のための願望のシンボルとして「天皇」は必要とされた事実について書きました。(道具としての『天皇』)

 

「民族」のディレンマについて、有名なニーチェの言葉があります。

>「恐らく、人間の前史時代を通じて、この記憶術よりも恐ろしく無意味なものはないといってもいい。人間が自分のために記憶をつくることが必要だと感じたとき、いまだかつて血の殉教や血の犠牲の拷問なしに事がすんだためしはなかったのだ。最も戦慄するべき生贄と最も醜悪な抵当、最も忌まわしい切断(筆者注※去勢などをさす)。一切の宗教的儀礼が行われたのだ…略。思想家たる民族を育てあげるには、地上でどれほどの苦難が払われたかは、もはや明らかであろう。」ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫P6668

 「慰安婦」や、その支援者たちの闘いを尊敬に飢えている「恐喝団体」でもあるかのように触れ回るのは、いったい、どのような計略によるのでしょうか?

 1991年以来、「ああそうだ、これがあれであったのだ」とでもいうように、たんに儀礼的に一礼しただけで、十分に敬意を表したと思い込んでいるのでしょうか?

 

奇妙なる敬虔なシニシズムを伴った時代

資本主義《国家》は〈貨幣-資本〉のシステムで「一切の障碍や束縛をくつがえす普遍的なコスモポリタンのエネルギーをもって膨張する」のですが、人々は「公正」と「正義」を前にすると自己の欲望を抑制しようとしました。欧米では、第二次世界大戦まで非快楽主義的功利主義という倫理学説が支配的であったのです。また、ベンサム、ミルなどの〈功利主義〉のスローガン「最大多数の最大幸福」がモラルではあったのです。

しかし、多くは経済的金融的メカニズムのなかで、実は、無意識的に〈利害〉にもとづく反動的な欲望が揺れ動くのであり、意識的には〈性急〉で飽くことをしらぬ【乱開発】をしていくのでした。まさに貨幣愛と個人主義の蔓延のなかで、貨幣が貨幣を生み、価値が剰余価値を発生させるという魔術的な連鎖のなかで、最大の危機は「分散」であり、「分裂」です。

 そこへ〈万人が相互に平等であるといった考え方を容易になしうる人間たち〉が生じて、すでに位置づけられている「搾取、隷属、位階秩序」が転覆されてはたまりません。が、後述する被抑圧民の反乱・闘争は、全力をふるって〈最も陰鬱なる組織〉を内側から破っていくのです。だから、専制君主そのもの、または専制君主の神》は、人々の誤謬や錯覚を再導入して群集心理を操作する比類なき道具とし、「民族」によって糾合していったのです。「民族」とは、崇高な特権であるように云われていました。

アメリカ大統領・ウィルソンが「十四か条の平和原則」で提唱し、ヴェルサイユ条約での原則となった民族自決は、実は、レーニンも革命運動のなかで唱えていたのであり、その後、民族独立の指導原理になったものです。

さて、ここで凄惨な残酷な暴力を受けた「慰安婦」の欲望について考えてみましょう。それは、たんに、ずっと奪われ続けてきたものを取り戻したいという欲求にすぎません。捨てられて顧みられることなく、多くは1990年代まで、鉄の鎖を足に巻かれたまま引きづって一人で歩いてきたのです。その大多数は道の途上で事切れてしまいました。

 「慰安婦」とは、まさに〈万人が相互に平等であるといった考え方を容易になしうる人間たち〉ですが、2015年、敗戦後70年の日本は、国家として謝罪しないままで、「席を譲れ」と凄んできているのです。

 知識人にとっては、「了解把握」の関係なのでしょうか?自分自身は、認められていて、既成秩序のなかに確たるポジションが保障されています。そこに、わたしは、見過ごすことのできない亀裂をみてしまいます。そこに強者のエゴイズムともいうものを垣間見てしまいます。

「知識人」は、どこまでも彗眼であろうとする目で、「民族」問題と「慰安婦」問題を、極めて丁寧に分析する必要があるのではないでしょうか?

 

信憑性もある対抗力もある必要な議論とは

民族主義とは、今日でもマイノリティの闘いにおいては重要なキーワードになっています。最後にポストモダニズム、ポストコロニアリズム的なナショナリズム批判において、かつて世界を騒然とさせたグアテマラの集団虐殺事件】を取り上げたいと思います。

周辺に追いやられ排除され、原始的で無害なものとみなされている「民族」に、今日、どのような悲劇と冒涜が起きているのか、世界は無関心なようです。

>「物質的支配は経済的支配である。我々がインディオでない者のために働く時、我々は搾取される。彼らは我々の労働が生み出す価値以下の賃金しか払わない。彼らはまた交易を通じて我々を搾取する。なぜなら彼らは我々の生産物、たとえば穀物や工芸品その他を安く買い上げて、高い価格で我々に売りつける。この支配は、地域的なまた一国のレベルに制限されずに国際的なものとなっている。大規模な多国籍企業は、我々の土地、我々の資源、我々の労働、我々の商品を求めてやってくる。彼らは、非インディオ社会において権力をもつ特権的な集団の支持を取りつけている。

 文化的な支配は、次のような考え方がインディオの心に完全に移植された時、存在するといってよいだろう。それは、西洋の文化が唯一のものであり、高レベルの発展を代表し、一方インディオ自身の文化は、文化でも何でもなく、そこからインディオがはいあがらなくてはならない最低レベルの後進性そのものであるという思想だ。このことから、教育というものが我々民族を分断する手段であることが明らかになる。」(1977年7月『バルバドス宣言』)

 グアテマラの集団虐殺事件】とは、グアテマラにおいて1960年から1996年まで続いた内戦です。アメリカは、グアテマラ『アルベンス政権』の政策を「社会主義的」であると見做し、またアメリカ合衆国の利益に反して容共的であると判断すると〈アイゼンハワー〉政権は、「転覆」を画策して【ジェノサイド(大量虐殺)】を白昼堂々と繰り広げたのです。これは、今日、中央情報局(CIA)が推進したものと証明されています。

当時、歴代軍事政権(アメリカの傀儡政権)による受難は世界中から抗議され、マイノリティから告発され続けたのですが、それは、お決まりの〈いつもの手順〉グアテマラ内戦」などと呼ばれて30年以上も〈残忍な暴力〉を食い止めることはできませんでした。

 あの抵抗の物語を世界は忘れ去ってしまったかのようです。

ヨーロッパの旧帝国主義列強が衰退したとき、すかさず「冷戦帝国主義として現われてきたのが、アメリカ〈帝国〉でした。核兵器を中軸としながら、すでに発達した資本主義国を糾合しながら「第三世界」を巧みに傘下に組み入れていきました。軍産複合体はアメリカ経済の中枢)

【WTO】【IMFなどによる規制緩和アメリカン・スタンダードを強制された弱小国は〈面従腹背〉〈仮面的追従〉を見せながら、いつも据え膳で我慢しなくてはなりません。食卓は少数者のためにだけ用意され、多数者は少数者の目的に奉仕しながら残り物で満足しなければならないという『暗黙の了解』

〈帝国〉は、不服従と罪を融合させるイデオロギーを得るために「教育」していったのです。その名は『新植民地主義』です。

 アメリカは『力の均衡』の扇の要になっているとされますが、朝鮮・韓国からみれば明らかに【南北分断】という最大の犠牲を払わされてきたのです。

信憑性もある対抗力もある必要な議論や「資料」は、いったい何時・誰が提供してくれるのでしょう。彼らが必要としているのは、単なる献身の言葉ではないと思います。自明のことですが、『比類ない暴力のシステム』に対して影響力を持ち得るのは世界の超大国のみです。揺り動かす言葉を語るのは、誰なのか!何時なのか!

 

《お断り》

前回、次回のタイトルは、【『慰安婦』の拒絶とは峻厳なるものです】と予告していましたが、またもや欺いてしまいました。申し訳なく思います。ただ、今、「民族」に纏わる誤謬を明らかにしないままに、民族的マイノリティである筆者が情感をこめて「拒絶」について語るならば、差別のバラマキに加担することになってしまいます。前提として、朝鮮の「文化史」、「民衆史」、また比較として日本・中国について書くつもりです。閉鎖的な民族主義、偏狭な政治主義へと流れ込む可能性を警戒しなければならないと自戒しています。