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mopetto2012のブログ

朴裕河氏が『帝国の慰安婦』を著しました。私は、そこに差し出された「新しい偽善のかたち」から誤謬の一つ一つを拾いつつ、偏狭な理念に拒否を、さらなる抑圧に異議申し立てをしていくものです。

(6)事実を封印したのは誰か!徹底的な証拠隠滅

耳を澄ませると、廃頽した都市の干からびた井戸から、あの叫び声、あの泣き声が聞こえてきました。幾万もの、幾百万もの、幾千万もの「死者」が行列して、こちらを見ています。

『日本国』の飽くなき貪欲と非常な〈力〉を半世紀も眺めてくると、もはや日本は没落していくだろうと思いもします。※(注1)

私だって、奈落のふちを歩きながら〈奇妙なねじれ方〉で訴えてきてしまったのです。それは、「危険な渡り、危険な途上、危険な回顧、危険な身ぶるいと停止」という【綱渡り】※(注2)でした。それは、渡るのも、立ち止まるのも、身震いすることさえ危険な渡りでした。それでも、まだ、〈幸運なサイの目〉が出るかもしれないと、薄っらと期待してしまいます。もしかすると、霧の中から〈のろし〉が上がって、隠れていた峰々が晴れわたるかもしれません。

さいぜんから遠くに聞こえるあの異口同音の呻き声は、窮迫の悲鳴ではありませんか?「慰安婦」にはもはや時が残されていません。

 2015年は、メモリアル・イヤーです。日本は敗戦後70年。中国にとっては『抗日戦勝利』70周年。韓国にとっては独立を回復した『光復節』70周年です。そうしてまた『日韓基本条約締結』後50周年です。

※(注1)朴裕河氏は、著『帝国の慰安婦』の序文P10に、>「『朝鮮人慰安婦』として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした」と書いています。そこで、私も「ひたすら耳を澄ませ」て聴いてみました。

※(注2)『ツァラトゥストラはかく語った』「超人と最期の人間について」から引用。

 

リベラル保守』の偶像が鋳造されている

今日のタイトルは、【事実を封印したのは誰か!徹底的な証拠隠滅】です。やや、堅苦しいものになりますが、今日のインターネット上での〈右翼的な発言をする人〉、【ネトウヨ】のリアルな活動を見ると、彼らは白昼、堂々と「ヘトスピーチ」を咆哮しながら、署名・投書・募金活動、デモ活動、その際、時には暴力行為にまで及んでいます。この《害悪》を安閑と眺めてばかりもいられません。堂々と論駁しなければならないと考えますから、その分析と「反論」のための【資料】のひとつになることを願ってご紹介したいと思います。

 【ネトウヨ】は、思考強迫でもあるかのように執拗に「証明せよ」と言ってきます。今日では、少々手が込んでいて記号論理学の真似事のような屁理屈までもちだして迫てくる人がいます。

必然的に「正しい論理」があるのだと啖呵をきっては、「いったい、なぜ?」と言い、「なぜ?…だから」と言い、あげくは「…の場合別だが、なぜ?」と、繰り返し言ってきます。こっぴどいほどに反撃されると、おずおずと退散していくのですが…間もなくには名前を変えて再登場です。そうしてまたもや飽くことなく間違いを繰り返すのです。不可思議なことに、今日ではこの隊列に『リベラル保守』も加勢してきました。

 その〈妄想的構造〉は、権力の渇望であるようです。自身が渇望する奇妙な地位を手に入れるためには、(才能もあれば、邪悪でもあるような)彼らは、今日では周到な用意と狡智によって世論を味方につけたのだと歓喜の声をあげています。もちろん、背景には「金脈」があり、「人脈」―〈政治と宗教が分かちがたく錯綜している〉―があるのです。その偏執性素質は、恐るべき悪疫にまでいたるかもしれませんから、皆で力を合わせて退治に向かわなくてはならないと思います。

ネトウヨ新自由主義者は、《講釈師見てきたような嘘をつき》さながらに〈にわか作り〉の嘘を述べて「証明せよ」と迫ってきますが、スゴスゴと退散して歯軋り咬んでいては精神衛生上かんばしくありません。とはいえ、自分自身でいるためには、その支えとしての「知識」を持ってるほうが心強いと思うのです。

人々は、素朴に「真実」があると信じていますが、「歴史」は、時間継起的連続性のなかに切れ目なく滑らかな水平面に再現できるものではありません。ですから、残念ながら、「事実」をキャッチコピーのように分かりやすく説明するのは困難です。

 

「記録資料学」とアーキビスト

「資料学」とは、平凡社百科事典によれば、

>「一般に歴史認識のもととなるべき素材を資料というが、歴史研究の基礎であるこの資料について、いかなる素材が資料となりうるかを検討し、その固有の性格を究明し、収集・分類の方法を探求するのが〈資料学〉である。」と書かれています。

>「日本古文書学でいう記録とは異なり、人間が特定の目的をもって何らかの媒体に記録化した一次資料を指している。」

 「資料学」とは、英語ではアーカイブズ(archives)です。日本では国外でアーカイブ学を修めた人はごくごく少数ですから、その確保が容易ではないために現状では〈役人〉が負うことが多く、だから「公開」は、遅延するばかりです。アーキビストの仕事は、プロフェッションを要求されますが「誰が見ても異論のない絶対的な選別などあり得ない」のですから、それを不断に研究しつづけるとは孤独で厳しい仕事であると思います。しかし、この難儀な仕事に日本政府が〈金〉〈人〉を配置するならば人材を確保できます。実は「記録資料」は、単独ではなく「群」として存在しています。これを科学的に認識するためには、個々の記録資料の属性を理解した上で、かつその発生母体である記録資料群全体の構造を認識したうえで、その個を位置づけなければなりません。これが、『戦争責任問題』、『領土問題』の「記録資料」となれば厖大な量に及びます。とうてい個人の仕事では為し得ません。現在、『歴史問題』の記録資料の在り処が分かっています。その記録資料に見合う厖大な人材を投入して取り組むならば、解決への道筋も描きやすくなるはずなのです。(参考:『岩波講座 日本通史』別巻3〈資料編〉)

 戦後、左派の多くは、戦前のあらゆるものを批判しましたが、実は、日本は、言われるほどに粗製濫造ではありません。それは、【明治史料編纂】一つ見ても理解できます。明治改元(1868年)の翌日には、議政官と行政官において文書の施行区分と記録編纂の開始が決定されています。

>「明治元年九月九日、議政官史官、議ヲ上リテ奏上・詔制・審断ノ三牒ヲ設ケ、及ビ記録ヲ編輯センコトヲ請フ。三職之ヲ嘉一納シ、行政官モ亦本議ニ傚ハシム。是ヲ太政官記録の濫觴ト為ス。」(『太政官沿革志』全35巻-初代記録局次長〈小野正弘〉によって編纂された。)

>「維新政府の屋台骨さえ固まらぬこの時点で、早くも文書や記録にまで配慮が行き届いていることは、まず瞠目に値しよう。」(『日本近代思想大系』「近代資料解説:総目次・牽引」岩波書店1992年)

 近代の日本の「揺籃期」を開港から「日本国憲法」にいたる半世紀とみる学者が多くいますが、実は「近代化」のプロセスは、明治初年から10年間ほどの短い期間、ひじょうに凝縮されて進行しています。

 

「国家」の私利私欲が浸食して、心を蝕ぶ

日本の〈官僚〉(※注下記)は、自らの職務のみを忠実に遂行しますが、戦争という「疎外体験」は、いよいよ上意下達という一方向的なタテの人間関係を強くしていき、国家的なるものに対しては屈服し、従順な家畜のようになっていきました。ですから官僚は、お上が〈取り残した問題〉〈体制が積み残した問題〉を丹念に拾いあげては、その補強に熱心に取り組んで、そうして見事に立派にやりとげてしまうのです。

彼らは、思わず知らずのうちに自らの内に権力関係を刻み込んでしまい、権力の強制を引き受けて、それを自分自身に対して自発的に働かせていったのです。※注〈官僚〉とは、国家公務員の俗称とされて、巷では、キャリア・ノンキャリアの使い分けが目立ちますが、厳密には「役人」を指し、地方公務員も実は官僚と呼びます。今日ではⅡ種・Ⅲ種等採用の職員とキャリア採用者を区別していません。一般国民に対して公務員は公権力側の国民です。権力関係があるのです。

 官僚は国家的なるものに対する帰属意識が強く、その一人ひとりの個人は「普遍的なもの」を基準として判断する習慣を持っていませんでした。【ムラの掟】というものがあらゆる倫理に優位したのです。【ムラの掟】とは、「表の団結・裏の村八分という表現に見事に現われています。秩序の維持のために、掟を破った者、見ならわない者、異端者は容赦なく差別されました。

朴裕河著『帝国の慰安婦にしばしば取り上げられる【警察】ですが、朴氏は組織図を一切見ていないようです。警察こそが民衆掌握のシステムとして網の目を張って、人々の日常を探知していたのです。警察の基本は「予防」でした。社会の内部に配置した最末端〈巡査〉を通じて民衆が反体制的行動を起こす前に押え込むか摘み取るかが彼らの使命なのです。

今般、被植民地において「官僚制」「警察」が雑駁に語られすぎるきらいがありますが、「警察」を認識する場合、日本の民衆の「警察感覚」というものを見落としては、被植民地、被占領地での日本帝国主義の蛮行が正しく把握されません。これらは、当時の新聞の論調、府県会での「記録」を読むなら察することができるのですが、民衆は「警察権力」による秩序の安定を期待していました。いわば、ある場合には保護者であるかのように頼りにしていたのです。

 「文明開化」と警察

明治政府は、各区域内に警察署を設置し、そのもとに〈派出所〉・〈駐在所〉を哨所として配置し、そこを起点にして民衆の動静を日常的に監視・掌握していたのです。郡部では、家族と共に住みながら勤務したために「おまわりさん」と親しまれているようにも見えるのですが、それこそが狙いだったのです。

>「まず、一般民衆が警察をどう感じ、どう意識していたかである。警察の末端で直接に民衆と接し、権力を執行して政府・行政当局の意図を体現していったのは巡査であった。民衆は警察を正面きって批判し、対抗する術を保障されてはいない。したがって、民衆は警察による権力行使に反発しながら、不満を内向させ、しかし、時として揶揄まじりに「放言」して鬱憤をはらす。これがたまたま巡査の耳に達すると、官史侮辱をもって民衆に縄がかけられることとなる。」(『日本近代思想大系』「官僚制 警察」岩波書店1992年P494)

>「日本の近代警察は極度の中央集権性をもって確立され、一方で、その頭部における政治権力の意志は地域末端まで貫徹され、他方で、末端において捕捉された民衆の動静は、権力機構を通じて中央に集約されていくというシステムをその特質とした。そのような機構のなかを還流するのは、行政優位の干渉主義的な権力行使であり、政治権力の擁護を最優先として、民衆の平穏・安定の確保を二義化する体質であった。」(『日本近代思想大系』同上P500)

 このようなシステムが「徴兵制度」を社会に根づかせてゆくための方策になっていったのです。

 〈西欧的思惟〉とは似ても似つかない〈朱子学的〉な【村意識】

大日本帝国憲法は敗戦後の否定運動によって、とかく否定的に語られていますが、その蓋を開けるならば当時としては近代的な憲法として評価できる面が多々あります。【大日本帝国憲法第9条】は、国民の権利が天皇に対しても「不可侵性」をもっていると明記されていますし、

>「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ案寧秩序ヲ保持シ及臣民ニ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」

 また、国民の権利が明文化されていて、不当な手続きによる逮捕監禁審問処罰を受けない権利(第23条)裁判官による裁判を受ける権利(第24条)不当な手続きによる住居捜索を受けない権利(第25条)等が認めらていました。また、立法府議員の不逮捕特権(第53条)司法裁判官の独立性(第58条)等、三権分立が明確に盛り込まれていました。

また、日本の「近代」は、西洋近代思想に依拠していたように見えますが、実は、その思想の「形式」は〈西欧的思惟〉とは似ても似つかない朱子学的〉な【村意識】でした。例えば、明治憲法「刑法典」は、まずは、フランス刑法の影響を受けて、ついでドイツ刑法の影響を受けたのですが、しかし、「新律綱領」・「改正律例」では多くを中国の【律】に従ったのです。

>「その精密・豊饒の論理は多くを律によっていたという事実も銘記されねばならない。」

>「今や、学者の中にも支持者を広げている『共謀共同正犯理論』は、その発想の淵源を新律綱領・改正律例の共同理論に有するものである。かかる意味において、この法典は、死せる過去ではなく、現在を生きている過去だということができる。」(『日本近代思想大系』「法と秩序」岩波書店1992年P539)

 西欧の近代思想にある「個」という倫理性をもっていないのですから(『私』という人の内部をもっていない)、困難に直面したとき(ことに官僚は)、否応なく自らを「特殊的な地位」であると開き直るのでした。が、その実、決して〈特殊な決定〉をすることはなかったのです。常に「既成事実」に従います。権力構造の内部で〈既成利害〉を貫徹しようとするならば、結果的には、権力構造の外にある「客観的事実」の無視につながります。この【理】を無視して「定式化された」返答をするのは悪意があるからではなく、それが習性なのです。ですから、官僚は、いつも決断を回避して「お上」を仰ぎました。(今日の官僚に瓜二つのようです。)

※例えば、伊藤博文は官僚である以前に「政治家」でした。矜持として寡頭権力としての自信と責任意識をもつていた巧みな政治家でした。安重根によって暗殺されましたが、抵抗勢力の反撃は予想していたと思います。

今回、朱子学的〉な【村意識】を長々と書いたのは、訳があります。日韓の間に横たわる深い溝を埋めるためには、日韓の文化を比較しなくてはなりません。日韓の共通項として、しばしば〈朱子学的〉〈封建制社会〉を示す人がいますが、両国は、その政治史が甚だしく違うのですから、「解決」のためにはその背景にあるを明らかにする必要があります。多くの日本人は、中国・朝鮮の文化を大いに見間違っていると思います。ここは、時代の寵児になったことがある小倉紀蔵氏のように〈権力におもねる〉のではなく、国家権力に反立を立てようと思っています。

 

狼が羊を貪り喰うとき-「焼却命令」

第二次世界大戦〈降伏〉が決定的になった直後から、8月「占領軍」が到着するまでの2週間の間、日本政府は各地に「焼却命令」を出しました。この命令は、陸海軍において徹底的なものであり、市町村レベルの〈兵事関係〉文書にまで及びました。(『岩波講座【日本通史】〈別巻3資料論P101〉』、同じく吉田裕著『軍事関係資料』岩波書店1992年)

内務省にも手ぬかりなく周知されて、特高警察資料〉など、『戦争責任』に問われそうな文書は徹底して焼却されたのです。

ことに、「朝鮮人強制連行についての記録」は、地方自治体の公文書として存在していたのですが、樋口雄一著『全国歴史資料保存利用機関連絡協議会』会誌『記録と史料』第2号「朝鮮人強制連行の記録と文書館」(1991年10月刊) によれば、現存する資料は稀であるといいます。(とはいえ、稀には残存しています。)

〈山田昭次〉・〈古庄正〉・〈樋口雄一〉共著朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店2004年)は、緻密な調査、唯物史観論による精緻な分析の書であり、「朝鮮人強制連行説【虚構論】」に対する優れた批判の書です。この本の書評が、ウェブにて読めますから、以下にご紹介させていただきます。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/573/573-06.pdf

 さて、外務省においては、外務省記録の焼却は、8月7日には決定され、ただちに本省および疎開地で実施(焼却)されていたのです。

>「内容ヨリ見テ絶対ニ第三者ニ委スルコトヲ防止スヘキ」

 外務省記録[全12万冊のうち、6698が1945年5月~8月のうちに失われたと記録されていますが、その大半は外務省本省からの焼却命令によるものです。

>「このため機密度の高かった中国関係の記録が多く焼却され、戦前外務省記録の重大な欠陥となった。」(『岩波講座【日本通史】〈別巻3資料論P102、同じく『臼井勝美「外交記録と『日本外交文書』1976年:みすず』第 200 号」)

 

>「焼却を免れた政府文書は、占領軍の押収対象となった。アメリカ陸軍省の敵国資料押収機関WDCWashinngton Documennt Center)は、日本敗戦の直前の88日に押収目録や作業手順を定め、1129日以来ATISAllied Translator and Interpreter Section)の援助のもとに政府各省、貴衆両院、枢密院、警視庁ほか各府県警察部、満鉄(東京支社、東亜経済調査局)、主要軍需企業の捜査を行った。とくに陸海軍に対しては徹底的で、士官教育機関にも及び、疎開した文書も免れなかった。押収資料はGHQや日本政府の緊急に必要とするもの、あるいは極東軍事裁判用のものを除きアメリカに送られ、194611月までワシントン郊外のWDC図書館に入ったものは約48万点に達した。他ルートによりWDC図書館に入ったものも多く、田中宏巳の調査によれば、資料に貼付けされたWDC番号には70万台のものも存在するという。このほかにもCCD(民間検閲支隊)が押収しメリーランド大学に送った「戦時教化・宣伝刊行物」7769点や、極東軍事裁判国際検察局が独自に行った押収資料の例もあり、米軍全体の押収文献は厖大な量に達した。」(井村-1980、奥泉・古川-1981、田中-1995)、(岩波講座『日本通史』別巻3〈資料編〉P101~103)

>「後述のように、これらの資料は図書を除いて大半は日本に返却され、もし押収されなければ闇に消えたような極秘文書まで公開されることになり、資料の一時消滅を意味する押収が、かえって公開の機縁となるという皮肉な結果を生む。この点に関し特記しなければならないのは、占領軍の押収を免れたものに内大臣府と宮内省があるということである。WDCの方針の最初から除外されていたのか、それともマッカーサーの意向によってそうなったのか不明だが、日本帝国の最高権力者たる天皇身辺の押収対象から除外したところに、アメリカの天皇制温存の態度が明白に読みとれるのである。もし天皇周辺の機密文書が押収され、占領解除後、他文書同様に返還されて公開されるか、アメリカでマイクロ化されたならば、日本近代政治史の資料状況は一変したことであろう。」(岩波講座『日本通史』別巻3〈資料編〉P101103

 上の書は入手が難しいので、以下の「歴史学」論文をご紹介します。北京大学〈臧運祜〉氏が慶應義塾大学法学部に客員助教授として招聘された時の論文です。専門的な「歴史学」ですが、時代を考察できると思います。ウェブにて読むことができます。

『主要文書より見たる日本の対華政策―満洲事変から盧溝橋事変にかけて』

運祜(Zang Yunhu)〈訳・鬼頭今日子〉

http://modernchina.rwx.jp/magazine/16/sou.pdf

 また、降伏の際、陸海軍や軍需工場が保有していた軍需物資は厖大な量にのぼっていました。実は、本土決戦に備えて日本国内に残っているすべての物資が「軍」や関係機関に集中していたわけですが、降伏に先だって、政府や軍は、これらが占領軍に渡されないように処分することを決めていました。すなわち8月14日、降伏発表に先立つ閣議で、次が決定されていたのです。

>「軍其の他の保有する軍需用保有物資資材の緊急処分の件」が決定された。

>「陸海軍は速やかに国民生活保全の為に寄与し民心を掌握し以て積極的に軍民離間の間隙を防止する為、軍保有資材及び物資等付穏密裡に緊急処分方措置す。尚陸海軍以外の政府所管物資等に付ても右に準ず。…略(『太平洋戦争史6〈サンフランシスコ講和〉P15.』)

 この閣議決定は、軍需物資の掠奪競争を引き起こしたのですが、その時、一部の軍人や資本家によって、>「分取られ隠匿された。」のです。(同上P16

 人間の下に潜んでいる怪異の貌

さて、ここで私たちはハタと訝しく思うわけです。多くの日本人が疑っていない「日本にも対韓請求権がある」とは、いったい何を指していたのか?(日韓基本条約成立までの交渉過程での久保田貫一郎・外務省参与の発言は【久保田妄言】として歴史事件でした。)しかし、降伏を目前にして、日本支配層が降伏後の生存のために積極的に政府を動かして活動していたことは外国人歴史家、ジャーナリスが克明に記事にして本国に送信していましたから、さまざまな記録資料として残されています。

>「大日本帝国」政府が資本主義敵国(下記)との友好政策を決定した正確な日ずけはおそらく421日あたりだったにちがいない。この日、ビルマラングーンでは,イギリス人捕虜に余分の食料が与えられ,医学記録は破棄され、囚人たちは日本にむかうため路上にひきだされた。そして29日、かれらは[釈放された]ことをつげられた。(デービッド・W・コンデ著『現代朝鮮史』(Ⅰ)p23―太平出版社1973年)※アメリカを指している

>「いかなる帝国主義権力も、あらゆる防御手段を講ずることなしには、一寸たりともその帝国を放棄するものではないという公理を追認して(ママ)※東京の日本財界指導者たちは、まだ戦争が終わらないうちから、かれらの戦争犯罪が警察の責にされるだろうと察知し、アメリカ人とすすんで協力するむねを公言していた。」※ここには翻訳の問題あり(同上P24

>「藤山愛一郎氏の記録によれば、終戦6日前の8月9日にひらかれた閣議において、「顧問」格の財閥代表たちは、アメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表した。高原の避暑地軽井沢で、かれらはシャンペンのコルクをぬき、産業の新時代到来を祝して乾杯したと、藤山は記録している。アメリカが占領軍になることを、全員が喜んだ。」(同上p25

 実は、すでに1945年3月上旬、三井の終身番頭であった藤原銀次郎に、大陸にある財閥権益をできるだけ救い出すという任務が与えられていました。

>「どのような帳簿をつけねばならないか、どの記録を破棄するか、どの品物を日本に急送するか、どの産業を破壊するか、また「忠誠」を買い経済混乱をつくりだし、敵を堕落させるために何百万という金をばらまいて利益を得ることなど。(※注:指導した)安倍総督もある程度までかれの指示を期待していた。615日にひらかれたおそらく最後の定例閣議で67417000円(約三千万ドル)の支出を命令したが、まったく防衛目的のためとされてはいたが、資金の一部が、藤原が保護しょうとしたその同じ権益を[守る]ため巧妙にも分配されたことは疑いがない。(同上p24

>「朝鮮における短期および長期の権益を日本の商社に保証するため、またべつの手段もとられた。戦争が終わったとき、多くの(日本人)労働者はまる1年分の退職手当を受取り、商工業、行政、警察部門で、忠実に日本人につかえてきた信頼のおける中流朝鮮人には、特別の一括ばらいボーナスが支給された。」(同上P25

朝鮮史家の〈ジョージ•M•マッキューン〉は以下のように書いています。

>「日本財閥は、外交官や軍人を使って、朝鮮人民が北朝鮮に建設された重工業を獲得することを阻止する方向で動き、富のすべてと財界指導者が引き上げたあと、鉱山地帯と工場に火がつけられるまでは、一寸たりとも土地を放棄しない、とかたく決心していたのである。」

『日本は、接近しつつある敵軍の進路にあたる鉱山や工場を破壊した。二世代にわたる伝統的敵(ロシア人)のきびしい権力の陰に暮らすよりも、過去4年間の軍事的敵国(アメリカ軍)の到着を待つ方がはるかに良いと考え、かれらは、大挙して南に逃れた。……したがって、1945年8月における日本の対ロシア工業破壊は、のちのアメリカ地区でのばあいより、はるかに広範なものであった。……64の鉱山が完全に水をかぶり、さらに178が一部水につかり、工場19が完全に使用不能となったがそのなかには清津の2鉄工場、城津の電気炉2基、平壌の2飛行機工場という、もっとも重要な六つの工場がふくまれていた。そのほか47工場のうけた損害も甚大なものであった』(同上P25※原典 『GeorgeMc.McCune,KoreaToday”P44~45・P213

マッキューンはまた、以下のように書いています。

>「日本が興南大化学工業を焼きはらうのを阻止した朝鮮人労働者の4時間におよぶたたかいについて語っている。破壊活動の激しさは、8月15日、正式に日本の降伏が宣言され、停戦命令がだされてからも、数日間に渡って赤軍と日本軍との戦闘がつづいた」DW・コンデ著『現代朝鮮史』(Ⅰ)P16

 上のような「史実」は枚挙にいとまがないのです。日本国は、込み入った複雑な問題を国民は理解しないだろうと踏んで、注意深く伏せてきたのです。

 Already(すでに)とは、「すでに無効」か?『暗黙の了解』

1965年締結された韓日条約とは、アメリカの経済的困難というジレンマがもっとも端緒に現われた事件でした。そこには、アメリカの東アジア構想-〈アメリカ主導の韓国・台湾の新植民地主義という野望があったのです。綿密な事前調査から用意周到に計画されました。

日韓基本条約」とは、社会体に遍在するミクロな国家の抑圧「装置」を巧みに仕掛けて、あえて言葉を雑婚させて〈曖昧さを残して〉決着させたものです。

この条約が、「日台条約」締結の準備と並行して進められたことを振り向くならばアメリカの魂胆は見えてきます。米韓日関係強化を優先させたことから、「日韓併合条約」に対する解釈や独島(竹島)「領有権問題」などで、「外交」といヴェールを被って、あえて曖昧な部分を残したのです。また今日問題となっている「従軍慰安婦問題」もこのときは議論されませんでした。

韓日条約」のとき、1910年の【日韓併合条約】について、「Already(すでに)」という用語が表わされて、それは日本では「すでに無効」と解釈されましたが、ここには、重大な「翻訳」の問題があります。これが1910年の時点で無効であったのか、あるいは1965年の「韓日条約」で無効になったのかは明らかにされなかったのです。それは、「韓日の対立点」解決は後世の世代に任せ、当面の課題解決に集中しようとの「思惑」から取られた措置であったとようです。

 日本は、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄しましたが、この講和条約には中華人民共和国中華民国のいずれも参加していません。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日、日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交は回復したとされていますが…学説には、「サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定である」という台湾地位未定論があります)。台湾の「歴史」は複雑の極致です。※今回は、朝鮮半島に特化して論を勧めていきます。

以下に重要参考文献をご案内します。

・日韓会談第五回基本関係委員会議事要録、日本側公開文書第六次公開、公開決定番号892、文書番号977

・木宮正史「日韓関係の力学と展望一冷戦期のダイナミズムと脱冷戦期における構造変化」(国際基督教大学社会科学研究所『社会科学ジャーナル』612007年)

・『金・大平メモ』について :李洋秀「韓国側文書に見る日韓国交正常化交渉(その2) 請求権問題下」(季刊「戦争責任研究」第54号 78-88P

・永井和ホームページ『日本軍の慰安所政策について』 永井和(京都大学文学研究科教授)http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html

『映像で見る占領期の日本』-占領軍撮影フィルムを見る-http://nagaikazu.la.coocan.jp/GHQFILM/index.html

 

《新生日本》は、不死鳥のように登場したのか

1945年8月の降伏という「敗戦」は、その時を境目に突如として不死鳥のように《新生日本》を誕生させたのでしょうか?あらゆる国家が個というさまざまな特殊性を切り落として「国民の物語」を作り上げてきました。

どの国も「国家」とは、国家の正当性のために「戦争の記憶」を継承する必要があると主張します。日本の一部では、ことあるごとに「植民地時代に日本は韓国に良いこともした」との発言を繰り返し、それに対して韓国では「すべて否定」してきました。日本は「何回謝罪すればよいのか」と言い、韓国は「何回謝罪を覆すのか」と言い、互いに睨み合っています。

歴史修正主義者は、一隅の事実の欠片を置いた上で、そこにフィクションを重ねて、その境界をぼかして「国民の物語」を見せます。日韓の人々は、そのような悪だくみを鵜呑みにしたり吐き出したりして健忘症になってはならないと思います。

 大日本帝国が消滅して以後の「戦後」から70年目、あろうことか、日本では東京裁判」見直し論が喧しく話されています。「普遍的な原則が確立されることなく、アメリカ・日本の間で特殊的利害間での原則を欠いた調整が行われた。」「戦勝国による戦争行為としての『東京裁判』は不公正なもの」等々です。国際政治学者、大沼保昭氏までが方々で『東京裁判無効論を唱えている始末です。

しかし、サンフランシスコ講和条約とは、日本がポツダム宣言を受け入れ、極東軍事裁判を承認した上で締結されたものでした。もしも、無効というのであれば、日米韓の戦後レジーム】が覆えることになるのです。日本は逆立ちして世界を渡っていこうとしているのでしょうか?巨大なアメリカに正面切って手向かえないために、その根拠を文書操作によって揺るがして、そうして疑惑の毒を次々と注ぎ込んで日本国民を目くらませさせようとしているのでしょう。

 日本は、「集団的自衛権憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示してきていましたが、2014年7月、自公連立政権下(首相:安倍晋三)で閣議決定により従来の憲法解釈を変更。憲法9条の解釈を変更することが閣議決定されてから「戦争」に勇み足で進んでいます。が、実のところ、日本国民は自分が戦場に駆り出されるとか、ましてや日本が戦場になることを想像してはいないようです。

日本人の多くは、権力に従順であり、没社会的自己中心主義者ですから、丸山真男がいうように

>「ひとたび圧倒的な巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞(いじょう)されるときは、ほとんど自然的現実に対すると同じ『すなお』な心情でこれを絶対化する」(『中央公論』1960年8月号)のでしょう。

日本の軍事力は、予備隊創立当初からソ連・中国の脅威に対応するアメリカの集団安全保障体制の中の「安全保障軍」として位置づけられていたのですし、その一方で、アジアの民族解放運動も敵視して(怠りのない警戒)、琉球(沖縄)は、アジア地域の有事に即応した主要な恒久的基地にされてきたのです。それは、1949年3月、アメリカ参謀本部が公式に日本に再軍備を進言してNSC-13/2の改定】を勧告したときには決められていたことでした。そうして5月採択されたNSC-13/3】以後、同文書では沖縄の恒久基地化・軍事基地拡充方針が決定されて今日に至っています。

東京裁判】では、被告が千差万別の自己弁解をえり分けて行いましたが、そこに見える大きな論理的鉱脈とは、「すでに決まつた〈政策〉には従わざるをえなかつた」「それは、既に開始された戦争は支持せざるを得なかつた」というものでした。有事の後、またぞろ騙されたと嘆くのでしょうか?

 このような危機の時代の真っただ中、現代日本の社会的志向を読んだうえで、いかにも「果実」を取り出すように『帝国の慰安婦』を刊行した朴裕河氏は罪が重いと言わざるを得ません。