mopetto2012のブログ

朴裕河氏が『帝国の慰安婦』を著しました。私は、そこに差し出された「新しい偽善のかたち」から誤謬の一つ一つを拾いつつ、偏狭な理念に拒否を、さらなる抑圧に異議申し立てをしていくものです。

敗戦後70年『痩せた民衆・欲情との結託』(12)

日本は、脱臼したまま、このまま後ろ向きに前へと進んでいくのでしょうか?

微に入り細に入り各方面へ目配りし、思弁の技術を駆使したものの止むを得なく〈中庸〉を選びとった『戦後70年安倍談話』。

国際社会がもっとも注目していた「慰安婦」問題への言及はなく、そうしてあえて韓国への謝罪を避けた『戦後70年安倍談話』。これは、追剥ぎのようなものではないか!

 慰安婦は、衣の下の瘡蓋をかきむしりながら、身も世もあらぬ哀しみに沈みこんでいるのかもしれません。

 このような日本なのだから、弱い者、社会から排除された人、無防備なまま暴力へと曝された人、異邦人、女性、そうして動物にも優しくはありません。今日も、夥しい脆いものが、無情に損ねられ、侵され、引き裂かれて、毀されています。

 ふり向けば、日本の自由主義史観論者「歴史事実委員会」ワシントン・ポスト(2007年6月14日)、「THE FACTS(事実)」という見出しで意見広告を出し、慰安婦募集に日本政府や軍の強制はなかった、「慰安婦は性奴隷ではなかった」と主張し、さらに「慰安婦」は公娼制度であったと主張した(その根拠として『旧日本軍の強制を示す文書がない』)ために国際社会に波紋を起こすこととなってしまいました。そうして、むしろ逆に、2007年7月31日アメリカ合衆国下院121号決議(United States House of Representatives proposed House Resolution 121)がなされたのです。

※深刻な憂慮をもつ「韓国国会」は、20071113日【韓国国会決議案・発議

 2013年『正論』12月号などは分かりやすい記録です。 西岡力「特集 慰安婦問題、反撃の秋」「さらば河野談話!暴かれたずさん聞き取り調査」、「元主筆の『勇み足』誤報告白でも責任取らぬ朝日の醜態」、「現地報告 大顰蹙のアメリカ『慰安婦像』建立運動etc.

翌年、菅義偉官房長官は、2月28日午前の衆院予算委員会で、政府内に検証のためのチームを設置する考えを示したのですが、後が矛盾噴出で大わらわでした。この時、まだまだ強気だった安倍晋三首相は、あの有名な妄言を述べたのです。

>「安倍晋三首相は、世論調査などで再検証を求める声が高まっていることに関し「政治家は歴史に対して謙虚でなければならない。同時に政治家の仕事の評価は歴史家や専門家に任せるべきだという思いを新たにしている」

 

「あの戦争」と呼びならわすようになった〈痩せた民衆〉

私は、在日韓国人ですが日本の学校で学びました。時に、思いもかけず降って沸いてくるような日本人の差別感情に当惑し、なぜ?という問いは、私を日本史、日本の文化史、民俗学へと誘っていきました。知ると、胸が痛みました。日本人大衆の多くは水飲み百姓として辛酸をなめて耐え忍んできたようです。「朝は朝星、夜は夜星」と身を粉にして働く身の上でありながら自らが収穫した米を口にすることができなかったのです。※江戸時代中期1782年~1788年の「天明期の大飢饉」では餓死者を多く出し、草木の葉さえ食べ、挙句には人肉まで頬張ったといいます。(餓死萬霊等供養塔(がしばんれいとうくようとう)

 ムラ共同体は、「泣く子と地頭には勝てぬ」「上を見て暮らすよりも、下を見て暮らせ」と教えさとし、人並みであるためには《はみだす》ことの怖れを醸成しては叩き込んでいきました。

ところで、「表の団結・裏の村八分という空気を、私は、今日でも感じることがあります。人間を差別化して序列化する「学校」では、序列という〈縦糸〉に、「人並み意識、横一列」という〈横糸〉が両方からバランスをとって子どもたちを管理しています。もしも、そこに「異質」なものが入っていくとその共同体は速やかに縦糸と横糸を強めて、総力あげて「異質」を排除しようとするのです。他者との出会い触れ合いの少ない子ども社会は、無意識のうちに大人社会の文化(掟)に感化されていて、残酷なほどの几帳面さで排斥していきます。今般、深刻になっている『いじめ』問題とは大人社会の反映でしかありません。

 今日でも異質なものに対する恐れ、嫌悪感を隠さない日本人は多いのですが、そのような先入態度は、日々の暮らしのなかで迷信や格言などを通じて、古い時代から日常的に再生産されてきたものです。反省する機会がないために「偏見」にまで変わってしまったものです。

思えば、日本の場合、1970年代初頭のころ世の中には「差別」の言葉が氾濫していました。卑近な例をあげるなら、科学者でさえ「精神年齢」という用語を用い、また「白痴」「痴愚」といい、行政では当然のように「就学猶予」「就学免除」の制度を強制しました。

>「制度としての差別がある種の『科学性』と結びつき、この世は地獄となる。」(山下恒男著『差別の心的世界』P356

慎ましい素朴な人々が、威光のある意見に出会うとその「先入態度」は容易く理論化されてしまうのです。『戦後70年安倍談話』が痛痒無きものであるとは、知識人も一般人の別もなく〈素直な心〉で「自己肯定」しているということなのでしょう。それを付和雷同といいます。

 抑圧された感情が誰かに扇動されると、充満した怒りが火を噴くように嫌韓といってヘイトスピーチしています。まさに「抑圧移譲の論理」です。復讐感情が湧き上がって「上からの抑圧を下へ向かって」吐き出さなくてはバランスが取れないのでしょう。

 

欲情との結託か?

生の塵は日々降り積もり、回路の複雑化により「誤作動」を起こし、次いで予期せぬ回路の発生がサイバーな運動を起こしてしまったのでしょうか?

 2015年夏、「戦後70年談話」について寡黙を通した知識人が多かったように思います。

あながっても抗いきれない「戦争犠牲者の傷痕」というものを今日の〈かたち〉で永遠に留めるのでしょうか?

 以外なことに、安倍首相の姿勢について、「昭和10年代の軍事指導者に酷似していると指摘」したのが、保守リベラル派として知られる保阪正康氏でした。(2015年8月14日テレビ朝日報道ステーションにコメンテーターとして初登場)

 

さて、「過剰な危うさ」のなかにある「戦後70年」の夏ですが、左派リベラルとして知られる知識人の多くが沈黙しているように感じるのは、たんに私のアレルギー反応なのでしょうか?

20世紀の知識人の傾向とは、特定の集団や抵抗の「運動」に敏感であり、まるで宿弊でもあるかのように、三井三池における労働者争議、水俣の公害訴訟、三里塚の農民闘争、韓国の民主化運動、ベトナム戦争、中国の「文革」闘争、キューバ危機、沖縄の反基地闘争、アイヌの人々の闘いetc.威圧的な不当な世俗権力を告発し、批判してきました。

「岩波」を筆頭にする日本のリベラル左派も、結局は「戦後的啓蒙」のスタンスのなかで理念を語っていただけだったのでしょうか?あるいは、その「災厄」が自らの瀬戸際にまで襲ってくると杞憂しているのでしょうか?戦後の「進歩派」の正義論とは、そんなにも脆弱なものだったのでしょうか?

 それでは、つねに裸出されて剥奪され続けている社会的弱者は誰に助けを求めるのでしょうか?

 

「内に民権を争うよりも、外に国威を張れ」

『戦後70年』と当然のように話されていますが、実は、朝鮮人にとっては『戦後140年』なのです。

 かつて韓国民主化運動に馳せ参じた私は、幸運にも、多くの気概のある「在日朝鮮人・韓国人」一世の元闘志と話をすることができました。私が思わず弱音を吐くと、彼らは同じように宥めるように鷹揚にかまえて語るのでした。「いいかい、『百年の大計』と言うではないか。まぁ、100年はとうに過ぎてしまったが、もうすぐなのだよ。だから私は、老体に鞭打っても此処にやってきて仲間と待ちかねているんだよ。『恨100年』というだろう。辛抱強く闘うことだ。」と、ゆっくりと煙草の煙をくゆらせながら言うのでした。

 日本の侵略は、江華島事】から数えるのですから韓国人にとって日本帝国主義の侵略を批判する場合、それは140年】になります。

明治政府意図的な「征韓」外交戦略として、かねてより軍艦で威圧していたのですが、1875年9月20日、「軍艦雲揚号」から「漢江」に向かって空砲を撃ってきたのです。「漢江」とは、朝鮮の首府「漢城」に近いのですから、驚いた朝鮮が不法な領海侵犯にたいして砲撃を加えると、日本は待ってましたとばかりに、艦砲射撃を連発して、あげくには上陸して強盗を働き殺戮もして帰っていったのです。

 この計画的な武力挑発は、明治政府の思惑のとおり韓国政府を動揺させました。こうした智謀のもと、明治政府は大勢の軍隊を率いて特命大使〈黒田清隆〉を江華島の主邑(むら)である江華府に乗り込ませたのです。

こうして、朝鮮にとって最初の開国条約【日朝修好条約】が結ばれたのです。それは、アメリカが日本に強要した不平等条約によく似たものでした。

 ※これは、日本の軍事力が強かったという理由からではありません。実は、欧米諸国は【ヨーロッパ再編】(ベルリン会議三国同盟など)のために国内の再編成に忙殺されていたので、まずは後進国日本に「朝鮮開国」の先駆をつけさせたのです。それに乗じて後から「市場」に参入しようとの目論見がありました。

安倍晋三首相が崇める吉田松陰は極めて露骨に「侵亜」を主張していました。吉田松陰『幽因録』には、「蝦夷地開拓、琉球を吸収合併…北は、オホーツク・カムチャッカ、南は台湾・ルソン島まで植民地にするべき。」と書かれています。

 下級武士の出身者が多い明治政府は、実は我が身を振りかえるならば、真の解放を求める〈下から〉の(民衆の)突き上げが恐ろしくなってきました。そこで方針を変更して〈専制権力〉を固めていったのです。【1873年政変】から〈自由民権派〉は挫折・転向を迫られて降参してしまいました。もはや一丸となって「内に民権を争うよりも、外に国威を張れ」朝鮮侵略につき進んでいったのです。

 

リベラルにも垣間見える「新自由主義者との共犯関係

政治という修羅の欄外で、いかにもラディカルな批判を広げてみせるけれども、その中身は「ジャガイモ袋」。なわち泥がついて不揃いであるばかりではなく雑草さえも混在しているのだから、とうてい、そのまま食卓に出すわけにはいきません。

科学を信奉する「知識人」であれば、既存の資料を緻密に網羅したうえで、さらに厳密に検討して「批判研究」を構築していかなくてはならないと思うのですが、日本では欠陥のある抑圧的な権威筋に〈こびへつらい〉、奉仕するような知識人、言論人が何と溢れかえっていることでしょう。

 けれどもサイードやアドルノがいうように「知識人」として糧を得ている人は仮借なき厳格さをもって「最良のもの」を表出して言語化しなくてはならないはずです。それは、大学人はもとより、たとえボヘミアン的な評論家であろうとも、慎ましく素朴な人々を欺くとは許されないはずです。

 >「ジャーナリズムや、大学の専門家や、ご都合主義的な住民の一機関が垂れ流している『われわれ』と『彼ら』の対立」をあおりたてる決まり文句や常套的メタファーの類に染まることになる。」(エドワード・W・サイード『知識人とは何か』平凡社

日本の思想家も、多くは「西洋の覇権主義」への批判という脈略で〈自己〉対〈他者〉という二元論的仮定で語ることが多いように思います。

「自分からしか見ない、自分からしか聞かなかった」ので、安倍政権が、中国を事実上の敵国と思わせようとして扇動すると、普通の日本人は、いつの間にか「中国の経済的な興隆」を日本の存立を脅かす脅威としてみるようになったと思います。

 

批判することの欺瞞  

1995年、加藤典洋氏の『敗戦後論は喧しい論争の的となりました。加藤氏は、有限責任を負う必要性は認めるとしながらも、

>「『無限の恥じ入り』なる語り方には、『鳥肌が立つ』」と反発し、日本人に対する日本人自らによる弔いの必要を唱えました。

 と、『敗戦後論』を痛烈に批判していた高橋哲哉氏が1999年、『戦後責任論』講談社)を著しました。

>「汚辱の記憶を保持し、それに恥じ入り続けるということは、あの戦争が「侵略戦争」だったという判断から、

>「帰結するすべての責任を忘却しないということを、つねに今の課題として意識し続けるということである。」

 これは「歴史主体論争」とも呼ばれましたが、その後、「文学」、「哲学」の広範囲に及び、西谷修氏、竹田青嗣氏も、加藤氏の問題意識に「感応した。」と書くと、今度は、加藤典洋氏-竹田青嗣氏」路線・「柄谷行人氏-浅田彰氏」路線の対立が繰り返し取り上げられ、そこに「戦争責任論」とあいまって夥しい知識人が言説を立てていったのですが、いつの間にか発話を閉ざしてしまったようです。

 私は加藤典洋氏の、以下の言説をもっと知りたいと望んできました。

>「『戦後知識人』、『戦後民主主義』に思想表現の場を提供してきたのは、岩波書店の雑誌【世界】であるが、そこに至る過程で、執筆陣が明治生まれのリベラリストから革新派リベラリストへ『忍び足』でシフトした。」(筆者注:つまり保守派リベラリストから革新派リベラリストへとシフトした、と。)

 ところで、不可思議なこともありました。1981年、ヨーロッパで起こった反核運動を受けて中野孝次氏が中心になって反核アピール】を出し、日本の文学者たちに署名をよびかけたのですが、これへの署名を拒否した柄谷行人氏が、別にあえて【文学者の反戦声明】を出したのです。

国家主義」を痛烈に批判する柄谷氏の主張は、捻じれるように複雑なものであり、自分は「日本人」としてではなく、「日本国民」としてではなく、>「湾岸戦争は、『憲法違反』だから反対する。」というものでした。この対立に、今は亡き吉本隆明氏も参画することとなり、日本の文学者たちは暫く、「文学」と「政治」を巡って火花を散らしたのです。

こうして湾岸戦争後の批評空間」〈啓蒙派〉と〈文学派〉の対立といわれ、また、「共同体派」対「眩惑派」ポストモダン思想に依拠して論を張る)の論争と呼ばれ、長い歳月論争していたと記憶しています。

 在日韓国人である私は、日本の期待するリベラル左派知識人が、戦後70年という節目に、いかにして「文化的権威」を揺り動かす言説を提出するのかと注目していたのですが肩すかしをくらったようです。かれらの論争は、限りなく多彩な言語で語られながら、そのポイントは「動く」のであり、起点であり頂点でもあるかのようにブレ続け、「ずれゆき」ていくばかりだったのです。

 「言うだけなら、何とでも言える」でしょう。しかし、目の前に元「慰安婦が救済を求めてこちらを凝視しているのです。みる側に、その〈強度〉を感覚しうる潜在的な「眼」があるかどうかが問われているのです。慰安婦は」ただ立ち尽くす身体ではありません。異常に「こわばる」身体ではありません。その情念とは、ことさらにアグレッシヴなものであり、またリアルな実態なのです。

 

花は鐵路(てつろ)の盛り土の上にも咲く

1933年に起きた「滝川事件」とは、京都帝国大学法学部〈滝川幸辰教授〉への思想弾圧事件ですが、抗議の意思として、京大法学部は教授31名、副手の全てという「全教官」が辞表を提出。これに支持を表明して今度は法学部学生全員が退学届けを提出。

※1955年「第2次滝川事件」との捻じれた関係は丁寧に読むべきと思います。

 この波涛の中に文学部の大学院生、中井正一〉、〈久野収〉、〈花田清輝などが登場してきました。厳しい弾圧下にありながら彼らは、反戦・反ファシズムを標榜する雑誌メディア『学生評論』『世界文化』『土曜日』を発行していきました。例えば、刊行された『世界文化』は2000部が瞬く間に売れて、やがて8000部にまで伸びたのですが、創刊当初から京都府警察特高の厳しい監視の下にありましたから、検挙・逮捕がつづき廃刊にされてしまいました。

にもかかわらず、その残り火は残滓でありながらも消えることはありませんでした。若い知識人は来たるべき時に備えて「自由主義的文化運動」の命脈をなおも保ち続けたのです。

 そうして敗戦後1946年、思想の科学』の創刊に繋がっていきました。(編集者:鶴見和子氏、鶴見俊輔氏、武谷三男氏、武田清子氏、都留重人氏、丸山真男氏、渡辺慧氏)

 昔より、実証主義相対主義は、とかく衝突するのですが、科学である以上、「証拠」・「現実」において〈ひとつの共通の前提〉があります。このような「歴史意識」を巡って、「歴史像の歪み」を真正面にみて修正を迫っていく歴史家が戦後の日本に控えめに登場しました。

それは『在野の学としての日本民俗学です。1950年代、大学に正規の学科、研究科ができましたが、文化人類学とも重なるものであり、「発展段階論」の基盤をなす「進歩の観念」への懐疑からの問題提出でした。

21世紀の今日、ジェンダー問題】を言説するときの「視線の変動」として「文化的相対主義」は通過するべき道であると私は思っています。

※「慰安婦問題」とは、「国家権力」の争奪に関わる政治的なものであり、20世紀の被害者と犠牲者への責任が問われている見逃すことのできない問題なのですが、現在、大方の男性が「ジェンダー差別」と耳にしたとたんに怯むことが多いように見受けられます。

 この問題は、戦場で行われた「男」の〈支配欲動〉というものが鋭く糾弾されているのですが、その20世紀の「戦争責任」の問題究明という時、歴史研究者や社会学者にも混乱がみられます。それは、「ジェンダー差別」が、ジェンダー・ステレオタイプの氾濫のなかで、しばしば語り手の独断論から、セクシュアリティをめぐるが「屈折・タブー視・抑圧」されてきたからにほかなりません。

 戦場という狂気の沙汰は、人間を救いがたい耽溺状態に貶めていきます。銃剣をふるう本人でさえ、連れられていくように黙々と前進するのです。軍人の本懐は、「たぎりたつ血」のシンボルに結ばれた戦闘で死ぬことだと頭にたたきこまれていますから、兵士たちは血みどろの「殲滅労働」を強いられても、いつのまにか諦念して思考回路も壊れてしまって判断力を失っています。

 

「通念」の囚人から解き放たれるために

「歴史意識」とは、もとより歴史学の専門家の専有物ではないとの異議申し立ても含まれています。

>「失われたかにみえる人と人とのつながりを、もっと深いところで回復したい」との切望から繰り広げられていきましたが、

>「これまで衰え滅びゆくものとして捨てて顧みられなかった人々の生活そのものの中に生きる知恵をもくみつくさなくては…略」(『日本中世の非農業民と天皇岩波書店1984年)

 1980年代、「国際化」といった合言葉のなかで「他者」、「異文化」などの用語が乱舞するようになりましたが、その実、「外」というとき、日本による被植民地域の人々から〈膨はい〉として起きてきた「韓国独立記念館」や「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」について、またマレーシア各地「殉難華僑追悼碑」について、日本人の大半はまったく知りません。

そのような無知な日本人がどのように「自画像」を描くのか!という自らを射ぬく眼差しから、実は、多くの「人間の仕事」が為されています。

・『日本の社会史』全八冊(『岩波書店』:朝尾直弘・網谷善彦・山口啓二・吉田孝編)

・『アジアのなかの日本史』全六冊(『東京大学出版会』1992~1993年。荒野泰典・石井正敏・村井章介

『岩波講座近代日本と植民地』全八冊(1992~1993年。大江志乃夫・浅田喬二・三谷太一郎・後藤乾一、他)

・『前近代の天皇』全5冊(青木書店1992年、石上英一・高橋利彦・永原慶二水林彪村井章介他)

 

いかに文化的権威を揺り動かす言説が提出できるか

私は、SEALDsの大衆的感情にたいして拍手喝采しています。運動は、日毎に膨張していき、今日では、大きな存在になりましたが、そもそもは、「騒憂」という〈半意識的集合体〉であったとように思います。これがSNSというツールによって、悪戯に歪曲された感があるのではと思います。

 【SEALD】においては、「集合心性」というものが掘り下げて検討される必要があると思っています。初め「純粋状態」であった「群衆心理」が燃え上がって一点にまとまって、突然「集合体」へと変容してきたのです。やがては、そのなかに《心感染》が起きて「結晶体」をつくっていくのでしょう。知識に乏しい、判断力に欠ける若年層が無自覚なまま便利に利用されはしないかと、危惧してもいます。

 ただ、彼ら、彼女らには、60年安保、70年安保には見られなかった「個性」があります。

一人一人が「個として尊重される」ことを必要条件として主張しているとは括目するべき点と思います。

 自然発生的に誕生したともいえる【SEALD】ですが、深刻な問題も内包しているかもしれません。その起源のために、運動が膨張していくなかで否応なく指導者的な人物が現れてくるだろうと思います。

若者たちは、無私の精神や真面目な信念から「公益を守りたい」一心で犠牲を払ってでも集っているのですが、場が「夜の集会」というものが、彼らの内に「無意識の《集合的記憶》」というものを呼び起こしていきます。ここに【情動と『群衆状態』】を読まなくてはならないと思います。

 「運動」のなかには、「腐敗分子」が少なからず紛れ込んでいるものです。そもそも、情動によって膨張したのですから「群衆」のなかの大多数には、人間の性(さが)ともいえる「虚栄心」、「ナルシシズム」が動機になっている場合も多いと思います。

 また、このように膨張して「数」を集めると、否応なく、内部にはプロパカンダが権威を持っていくことになります。そうして「ためらう者」に対してさえも半強制的に「ある種の行動」へ促していくという《圧力》が生じてきます。政治運動ですから、「硬直化したドグマに取り込まれる危険」がつきまとうのは免れません。これは、日本の【SEALD】現象に特有なことではないと思います。世界中の熱狂する集団に起きています。

 多くの「知識人」が冷やかな視線を浴びせて、「知識」ある者として警鐘をならしていますが、彼ら、彼女らは、「日本敗戦後の伝統的知識人」の感性の欠如に対して健康な厳しい批判をもっているように思います。

彼らの発話は、未熟なために、その自然発生性から「這い回っている」ような「知の分裂」でもあるように見る人がいますが、そのような脆弱な部分とは、〈運動の萌芽〉においては不可避なものといえるのではないでしょうか?

 確かに、デモを拡散しているSNSというツールには危ない側面があると思います。これまで「知識人」は学問して、一応、「言葉」を論理的に用意してから発言していました。そこに「議論」「論争」というものが起こったのですが、SNSとは便利が過ぎて、思考を深めることなく衝動的に発話を続けます。しかも連鎖して累積過剰していきます。

誰もかれもが日常的に囚われているかのような「SNS」というツールの活用によるコミニュケーションでは、目を覆いたい、耳を覆いたい「知性の衰退」が起きているようにも感じます。それでは、弱いものが明らかに「割を食う」ことになっています。その場の思いつきや感情が連結されて、炎上さえするという危険に対して「幼い者」の場合、を着て防御することができるのでしょうか?

【SEALD】は、流動しています。伝統的知識人が、批判するならば、「日本の左派の運動」が、その権力構造によって、どのように生み出され、制約されてきたかという脈略まで明らかにして、そうして相対的に批判しなくてはならないと思います。

 

 知識人の感性の欠如と「実践の哲学」

マルクスは、プロレタリアート」の解放こそが人間解放であり、そのためには「哲学」との結合が必須であると書いています。

 初期マルクスの思想的先行者であるブルーノ・バウアー(青年ヘーゲル派)は、1848年三月革命が起きたとき、自らの「大衆論」において

>「大衆は彼ら固有の鉄面皮、浅薄、自己満足のなかで自分たちこそ、なお今も進歩の尖端に立っていると信じこんでいたのであるが、その彼らこそ進歩の主要な敵なのだということを証明してやるためには、意味はないにしても彼ら自身には思ってもみない一撃を加えてやることが必要であった。」

 と書きました。そのショッキングな切り口は大きな反響を呼んだのですが、マルクスは、なぜでも、ドイツ的思弁の最高峰をゆくブルーノ・バウアーを粉砕しなくてはならないと考えるようになりました。そこで〈エンゲルス〉と共同労作して書かれた本が『聖家族』です。

 これは、驕慢からの対抗などではありません。マルクスは、まさにブルーノ・バウアー批判に仮託して自らの自己意識にメスを入れたのです。これは、「自己欺瞞」というものを衆目の面前に晒して、厳しく自らを断罪するという書でした。マルクスは『ヘーゲル法哲学批判序説』に後進性を読んで、それを踏み台にして「ドイツイデオロギーを書きました。

>「社会のあらゆる他の領域から解放し、それを通じて、社会のあらゆる他の領域を解放することなしには、自分を解放することのできない一領域」1,S,390であるところの

 >「解放の頭脳は哲学であり、それの心臓はプロレタリアートである。哲学は、プロレタリアート揚棄することなしには実現されえず、プロレタリアートは哲学を実現することなしには揚棄されえない。」

揚棄-そのものとしては否定しながら、更に高い段階で生かすことの意。                                                                                                             

 以後、マルクスは、大衆をざっくばらんに「物質」と呼ぶようになり、そうしてプロレタリアート」という観念と格闘しつづけることになりました。

 

最期に、

塞がれた回路を再び〈交通〉させるためには、さらに〈横断〉して、もともとなかった回路まで、どんどん引いていかなくてはならないと思うのですが、いかがでしょうか?

 

 

 

【戦後70年安倍首相談話批判】 ―日本国、戦後70年の大計は「歴史的惰性」の上に立っていた―

安倍晋三首相は、被植民地・被占領地の人々の無残・苦悩・嗟嘆へ思いを馳せて、まずは「弱さが過ちを犯させた」と正面から見つめて謝罪するべきでした。

 長い、ただ無駄に長い「談話」は、〈声低くして〉語られました。注(1)下記

意味深長、不鮮明、不明瞭、不明確、注意深い隠蔽…その〈おぞましい婉曲表現〉は、人間を嘲笑する行為です。

 「二つの谷に挟まれた危険な尾根」安倍晋三首相は、一切の政治的決定を避けて見事に渡りきったと、満腹のご様子です。

 小林よしのり氏のように「村山談話が冗長になっただけ」と放言して悦に入っているというのでは軽佻浮薄が過ぎると思います。安倍首相の【談話】は「魔術的文章」とも呼べるものでしたが、そこには、シニカルで政治的なポーズがありますし、それはまるで蜘蛛巣城で練られたような秘密を隠しているのですから凝視しなくてはなりません。

 戸惑いと、反発から直前までアタフタしていた日本であり、マスコミも大騒ぎしていたのですが、『敗戦後70年目の談話』は、幻聴でもあるかのように〈処理〉されてしまいました。

 とうとうアジアへ「反省の眼差し」を向けないままに過ぎてしまいましたが、この選択は、日本が、過去へ退行するという『大衆の愚行』を余すところなく世界に知らせることになりました。

 

朝日新聞』2015年8月19日 【安倍談話に評価と懸念 米識者】

戦後70年の安倍談話をめぐり、米ワシントンで18日、東アジア専門家3人が議論し、安倍晋三首相が歴代首相談話を踏襲したことを評価し、日中韓関係の改善に期待する声が相次いだ。()

 米戦略国際問題研究所(CSIS)のマイケル・グリーン副所長も、談話は「首相が右寄りでなく、中道を目指したもの」と分析し、「現実的な方向だ」と評価。ただ、「この談話の第一目標は日本国民に向けられ、第二は米国や豪州。第三が中国で、韓国が最後。これは日本にとって戦略的に誤りだ」とし、韓国へのさらなる配慮が必要だったとの認識を示した。

http://www.asahi.com/articles/DA3S11922746.html 

 「輿論(よろん)統一」という事実は、愚行を賢行に見せ、虚構であるものを真実らしく見せてしまいます。皆々自分が大方と違わないとなれば、その人は狂わないで済むのですから、多くの日本人は、此処〈灰色の世界〉で、まどろむように息をするともなく息を吸ったり吐いたりするのでしょうか?

輿論とは可算的な多数意見で、 輿の字がみこし(御輿) を担ぐという意味。「世論」は私的感情とか世間のムードといったもの。

 人間の混沌とした胸の奥は闇のように底知れずではあるけれども、私は、艱難辛苦をくぐって【戦後70年安倍晋三首相談話】を分析するために、今から、貴方を〈1945年8月15日〉までご案内したいと思います。

 

戦争のパブリック・メモリー

8月15日は、酷熱がのしかかってくるような猛暑でした。正午、日本国民は、直立して項垂れて玉音放送を聴いた(そうだ)。あえて「そうだ」と伝聞調を強調するのは、それは事実とは違う、作話された物語であるという意味を含んでいます。

 

実は、玉音放送は8月14日であったと証言する人が少なからず現われましたし、それらの多くが裏付けされています。

 「敗戦」して、ポツダム宣言を受諾した日が8月14日。文書調印は、ミズーリ号上で9月2日に行われました。なのに、なぜか?日本では、お盆の真っ最中の「8月15日」が「終戦記念日」であると演出されたのです。

 皆が追想する8月15日の玉音放送は、そのラジオ放送自体に雑音が多く、また低音質でしたから、聴く人は何を「言わんと」しているのか理解できませんでした。多くの人々は、その後、NHK和田信賢アナウンサーの「解説」によって「敗戦」の事実を知ったのです。

【創られた伝統―815日とその「記憶」】

http://togetter.com/li/654369

 そもそも玉音放送は、8月14日であったといいます。(青森県の教員だった花田省三さんの証言による)

そうして、45年8月15日当日の新聞各紙夕刊には「玉音にぬかずく国民」の記事が掲載されましたから、国民は一日ずれて戦争終結を知ったのです。(そもそも、当時の技術で写真が当日の新聞に掲載されるはずがありませんでした。)

 悪魔と〈よしみ〉を結んだかのように、1945年8月15日は、あくまで歴史的状況に客観的位置づけて据えられることになったのです。

>「ひたすら権威の決断にすがる忠実だが卑屈な従僕」(『現代政治の思想と行動』P161)に成り下がっていた日本人の多くは、その心性醸成のために〈むさぼるように呑みこんで一切合財を了解〉したのでした。「ありのまま」現状肯定するほうが楽だったのでしょう。

 以後、8月15日は「戦歿者を追悼し平和を祈念する日」と定められ、政府は半旗の掲揚を各官庁、学校、企業等に求め、日本国民の多くは〈喪に服するように〉戦歿者を追悼しています。

※戦歿者とは「戦没者」と同意ですが、あえて戦歿者と書く場合があります。例として『日本会議』を挙げます。「戦歿者追悼中央国民集会」とし、>「集会では、国歌斉唱、靖国神社を拝礼した後、昭和20年8月15日の『終戦の詔書』の玉音放送を拝聴。」それは、〈御霊をまつる〉という意を込めているわけです。

 

「敗戦」という事実を否定したかった右派勢力は、昭和天皇「終戦のご聖断」という物語を作話しました。御前会議でなされた聖断がもののあわれ固有信仰の幽冥観儒教倫理によって〈読みかえ〉られて物語化され、戦後8月15日、多くの日本人が「終戦」の日として「戦歿者を追悼」しています。

 「814日の御前会議の経過と天皇陛下の御発言」

>「戦争を終るべきであるということを言葉は静か乍ら断乎申されました。」

終戦直前の昭和20年8月9日にポツダム宣言受諾の可否について御前会議が行われ、鈴木貫太郎首相から乞われる形で宣言受諾の御聖断が下された。その後8月14日に再び御前会議が開かれ、再び御聖断の形でポツダム宣言受諾の最終決定がなされた。

http://www.jpsn.org/report/6267/

 

 興味深いのは、「左派」もまたこれに乗ったということです。「8月15日」を【終戦記念日】としたのです。左派も左翼も押しなべて1945年8月15日「新生日本は始まった」として、その〈革命的建国型神話〉の共犯者になったのでした。

上意下達の一方向的なタテの人間関係を基本にしていた日本人ですが、しかし、左派や左翼の多くは史的唯物論者」であり、また、天皇や軍部の責任を追及しようとしていたのですから、もちろん〈8月14日〉、〈9月2日〉については十二分に認識していたはずです。

 私は、この右派と左派における【同床異夢】に日本の戦後「体制」の最も深い病理を観ています。戦前・戦時、「政治権力」のあらゆる非計画性と非組織性にも拘らず「日本の思想」はまぎれもなく戦争へと方向づけられていきました。「何がそうさせたのか?」は課題です。

さて、今般、リベラル左派とみなされていた知識人のなかにも、自分の物分かりの良さを自慢するように、安倍首相を讃えたり支援したり、ハタマタ、政府の敵対勢力を非難するようなプロパガンダ活動に加担する人がいます。「戦後70年目の8月」を前にしたとき、安倍政権の欠陥に挑みかかっていくべき好機だったのではないか、と残念でなりません。

知識があって能弁であるならば、このときこそ辛辣な批判を、異議申し立てをしていくべきと思うのですが、沈黙を決め込んで安楽椅子に揺られている人も少なからずいます。「何がそうさせたのか?」をウヤムヤにしてはならないと、私は考えます。今回は、テーマが錯綜して混迷しないように「一部分」のみ記述して、次回に書きます。(今度こそは、間もなくには掲載することを約束します。)

 ソヴィエト(ロシア)における【マルクスレーニン主義】(スターリン主義)とは煎じ詰めれば「国家社会主義」です。その具体的な〈経済政策〉および〈権威主義〉的性格という点は、実は「ファシズム国家」における【帝国主義全体主義】といふものに酷似しているといえます。

 ※誰がマルクスを「神」のように仕立てていったのでしょう。19世紀、多くの人々がマルクスに心酔して自分もその一部になりたいと(同一化)、行動の幻想を持ったに過ぎません。

マルクス当人こそが、このディレンマに苦悩していたのです。1844年『経済学・哲学草稿』において「人間の本質」について述べているのですが、そこでは「人間性」という概念を使用して「疎外されない仕事」について、>「人間性に最も相応しい条件下にあり、かつ人間性に最も価値ある条件下の一つだ」と云いながら、他方で、人間が歴史的過程において自己創造することを強調し、ある個所では人間の本質は彼らの住む「社会全体の調和」以外での何ものでもないと書き、「決定論」として人間の〈自己〉を規定しています。

将来は過去によって決定され、ある出来事は起こるべくして起こったと(決定論)、「歴史」には不変の進路があるかのように説明しました。つまり、非歴史的・非進化的概念に屈服することを肯じなかったのは明瞭ですが、定義づけることができないまま曖昧で矛盾ある表現にとどまっています。また、マルクスは、政治に対する経済の優越を指摘して「近代の国家権力 Staatsgewalt は、全ブルジョア階級の共同事務を処理する委員会 Ausschuss に過ぎない。」というかたちで主張しています。

 

 天皇を敬うということを通して天皇を「機軸」に復興させたい

歴史修正主義は、ナショナリズムを再興するという明確な目的を掲げて執拗な探究を続けていますが、日本では明治以来、あらゆることが用意周到に「計算と洞察」されて実施されています。例えば「祝日・祭日」を戦前・戦後で比較すると実に分かりやすいのです。

ニッポンの〈裏の力〉とは地下に鉱脈をつくるように、戦前から変わることのないメカニズムで営々と続いてきたと明確に理解できます。ここに一部分を書き出しますが、どうぞ、読者の方も調べてみてください。

 

・3月20日21日春分の日―【春季皇霊祭※歴代の天皇・皇后・皇親の霊を祭る儀式。宮中祭祀

・4月29日みどりの日――【天長節】4月29日 ※昭和天皇誕生日

・7月20日海の日――戦前「海の記念日」真珠湾攻撃で対米英戦争を開始した1941年7月、「徹底的なる戦時態勢を必要とし」明治天皇巡航から横浜港に帰った720日を「海の記念日」とした。

・9月23日『秋分の日』――【秋季皇霊祭】※歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋に纏め奉祀した。宮中祭祀

・11月3日『文化の日』――【明治節】 明治天皇誕生日

・11月23日『勤労感謝の日』――【新嘗祭天皇が五穀の新穀を天神地祇に進め、また、自らもこれを食して、その年の収穫に感謝する。宮中祭祀

・2月11日『建国記念日』――紀元節 ※かつて神武天皇が即位した日を日本の紀元節として祝った。

 

安倍晋三首相『戦後70年談話』は、8月14日に〈時〉を合わせて行われました。これは、昭和天皇の判断を仰ぎポツダム宣言の受諾』を決定したのが8月14日だったからです。

まさに、安倍首相【戦後70年の談話】とは、ひたすらに欧米に向けて発せられたものであり、とりわけアメリカに最大限の配慮をもってなされたものでした。これは、アメリカの指南も受けたものと思われます。

 2015年4月、安倍晋三総理は、「米国連邦議会上下両院の合同会議において演説」を行いましたが、それは429日「昭和天皇誕生日」でした。実に巧妙に〈時〉を選びました。日本は、午前0時を過ぎて暦が4月29日となったのですが、その時、日本じゅうが〈夜の帳〉の中に眠っていました。

 「権力者」は、共犯者を多く作り、かつ自らがこの体制を望んだのだという共同幻想を作るのに躍起になって努力するものなのです。

 

 高邁であるかのような振る舞いに、時宜を得ない偽りの称賛

【戦後70年談話】とは、相対的に摩擦のない〈合意された〉文章は、練りに練り上げられたものでした。

「否定」を正面から凝視して、巧みに転移させるために、あえて両義的曖昧性のなかに身を置いて「中庸」を演じて見せたのです。4つのキーワード〉「侵略」「植民地支配」「痛切な反省」「おわび」の4つさえ盛り込まれていたならば、国際社会は評価せざるを得ないと踏んだのでしょうか?

 【談話】始まりの早々に、以下があります。

>「その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。」

 過去の欧米列強の植民地争奪戦をあげて、日本の〈侵略〉は止むを得ないものであったと矮小化することから始まっているのです。そこには誠心の反省が伺えません。何と、日露戦争を自画自賛しているのですから閉口です。

日露戦争とは「朝鮮」の領有をめぐって日本とロシアの間で争われた帝国主義戦争でした。日本の侵略戦争日清戦争(朝鮮の植民地化)後、三国干渉が発生すると、日本中に臥薪嘗胆(がしんしょうたん)というスローガンが広がって、日本はいよいよ植民地争奪戦に野望を膨らませていったのです。

アメリカの〈ポーツマス講和条約が締結されたのですが、結果、「韓国」は事実上日本の植民地になることが決定づけられました。>「勇気づけました。」とは、盗人猛々しい強盗の論理です。(たしかに、日露戦争終結のために伊藤博文はアメリカに深く頭を垂れてはいましたが。)

※臥薪嘗胆(がしんしょうたん)とは、復讐のために耐え忍ぶこと 

>「第2条 露西亜帝国政府ハ、日本国ガ韓国ニ於テ政事上、軍事上及経済上ノ卓絶ナル利益ヲ有スルコトヲ承認シ、日本帝国政府ガ韓国ニ於テ必要ト認ムル指導、保護及監理ノ措置ヲ執ルニ方リ、之ヲ阻害シ又ハ之ニ干渉セザルコトヲ約ス。」

 『談話』で、強調されたのが【寛容の心】でした。

>「寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。」

 日本が復興できたのは、

>「先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。」

 戦中「敵」として戦火を交えたアメリカが、戦後、日本の再生のために(実はアメリカの極東政策のためだったが)尽力してくれたことに感謝しているようですが、日本は、無辜の人々が「原子爆弾」で苛烈に残忍に虐殺されたにもかかわらず、なぜ?「水に流す」といえるのでしょうか?

 アメリカ『力の均衡』の扇の要になっていると感謝されていますが、朝鮮・韓国からみれば明らかに【南北分断】という最大の犠牲を払わされてきたのです。朝鮮半島は自らが選んだのではありませんが地政学的位置」のために東北アジアを支配しようと企む外勢の『台風の目』でした。日本の植民地支配から解放された後も「全地球的規模の台風の目」となっています。ナショナリズムが織りなす狂信的イデオロギーと反理性的核兵器万能主義」に挟まれて艱難辛苦をくぐって生きているのです。その犠牲者に未だに国家として謝罪しないままで、米国、豪州、欧州諸国に謝辞の言葉を述べています。

 安倍首相は、国際社会が注目する【70年談話:安倍晋三首相談話】のために長い歳月をかけて、周到な用意と狡知によって「政府の下僕」を選んだようです。

彼のために働きたい知識人、大学人、ジャーナリストの中から選りすぐりの「智謀家」を選んだのでしょう。飼い犬のような彼らは、狡猾な一策をもちよって「言葉をひとひねり」しては、練りに練り上げた文章を作り上げたのです。

 

 最も悪しき者が、ヨリ効果的に支配者の座を占めた

ヒットラーは、大衆を蔑視しながらも「大衆宣伝」に心を砕いたのですが、「国会中継」を観ていると、時に演説する安倍首相の横顔に我が闘争が重なることがあってゾッとします。

第一次政権時の過ちから教訓を得たものか、「健康」と権力に恵まれた成熟しきった男であるかのように振舞い、片時も自分の威厳を忘れたことがありません。その尊大な態度は、あたかも国王にでもなったかのようです。

飼いならした「犬」の中から選りすぐりの〈下僕〉に高位の地位を与えましたが、〈下僕〉たちは主人が気に入るように自らの性質を最大限に増大させて流動させていきます。本人でさえも自身の変身のありように、ふと、我には〈天賦の才〉があったのかと勘違いし、が、またたく間に我に返って不安になったりします。が、今では、その心地良さが染み込んでしまって〈永続性〉を求める衝動が抑えられなくなってしまいました。さて、この人物は誰でしょう? ※注2.下記

家畜らはよく飼いならされていますが、時には命令に従わない者もいるものです。そんな場合、主人は僅かな餌を与えて躾しようと試みるのですが「変身」練習の熟達が遅いとなれば、早々に群れから引き離して放ってしてしまいます。さて、この人物は誰でしょう? ※注3.下記

 

鋭い切り口、洒脱な評論のニュースサイト【リテラ】では、次々と速報しました。

『安倍首相の戦後70年談話は日米合作だった! 騙されてるのは日本国民だけ、海外メディアは二枚舌見抜き大批判』

http://lite-ra.com/2015/08/post-1406_4.html

・アメリカ『ワシントン・ポスト』→「日本の指導者、第二次大戦で謝罪に至らず」

・アメリカ『ウォール・ストリート・ジャーナル』→「日本の安倍首相は第二次世界大戦における直接的謝罪の手前で止めた」との見出しで報じた。

・アメリカ『ニューヨーク・タイムズ』→「安倍首相は、歴史を“誰も非難できないような種類の歴史的ツナミ”として描くことで、日本の責任を希釈化した」(ボストン大学の政治学者・トーマス・バーガー教授のコメント記事掲載)

・イギリス『英ロイター通信』→安倍首相が「彼自身の新しいおわびは表明しなかった」

・イギリス『英国放送協会BBC)』→独自の新たな謝罪は示さなかったと分析。

・イギリス保守系高級紙『タイムズ』→安倍談話についての社説を掲載。「恥ずべきほどまでに、(戦争中の)日本の罪ときちんと向き合わなかった」と論評。また、「原爆忌終戦記念日で、日本は戦争の加害者というより、被害者であるという神話を維持している」。

・フランス『ル・モンド』→「安倍総理大臣個人として、過去の侵略や植民地支配に対する謝罪を一切行っていない」と指摘し、安倍首相が「彼自身の新しいおわびは表明しなかった」と批判。

・フランス『リベラシオン』(電子版)→昭仁天皇の戦後70年における本心を紹介。それと対比させる構成で安倍首相を「国家主義者」として批判的に談話を報じた。また、仏のメジャー紙「ル・モンド」は、「安倍総理大臣個人として、過去の侵略や植民地支配に対する謝罪を一切行っていない」と指摘している。

http://lite-ra.com/2015/08/post-1406_4.html

 

 ナルシシズム的な歪曲と悪だくみ 

政権の悪だくみに加担して、人々を欺いてきたのがマスコミです。国民の知る権利に奉仕するのが「報道」なのですが、公共圏に君臨しているマスメディアは、既に現実が形成せられたということにおいて是認することが決まっているようです。

公共放送NHKは、安倍晋三首相肝いりで籾井勝人が会長に就任して以来、ますます目を覆いたい耳を覆いたいほどに「安倍色」に染まってしまいました。時事問題の場合、結局はいつでも〈権力の意向〉に沿って議論の骨組みが与えられます。

テレビニュースの人気キャスターは、日々「出来合い」のかたちにまとめて、〈うやうやしい〉卑屈なまでの解説をアナウンスをしています。彼らは、操作によって視聴者を騙すだけではなく、自分自身をも欺いているのですが痛痒無いようです。

安倍首相は、ひじょうにマメな性分であるそうで、常にアンテナを張り巡らせて〈内容の偏り〉と感じると、さり気無く「声」を掛けるのだそうです。「観ていますよ」と。同調圧力です。果ては、幹部を呼んで指摘までするのだそうです。今では、安倍政権の世論操作・イデオロギー操作に国民も慣れてしまったようです。

『反安倍首相の論客が干される TV局が官邸の監視にビビる現状』

http://www.news-postseven.com/archives/20140318_246355.html

 元へ。再び【戦後70年安倍首相談話】から引用。

>「私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。」

 この一年間余り、猖獗の問題にまでなって国際社会でも非難轟轟に受けた慰安婦」問題を、かくも軽々と振り払ってよいものでしょうか?

去年も、今年も、無念のまま元慰安婦が亡くなっています。乗り越えがたい苦悩、耐えがたい貧しさを顧みなかったのは誰だったのでしょう。国際社会の論評も指摘するように、1991年以来、捨て身の問責を続けてきた韓国の「慰安婦への謝罪が見当たらないとは慙愧に耐えません。

 あの戦場という狂気の迸りのなかで、何度も殺された「眼」は、普通の人々の眼差しの場からもぎ離されてしまって以来、もはや裏返されたように〈ひきつり〉ながら、こちら側を観ています。絶えず限界をみながら、にもかかわらず、超えて、侵犯して進む以外にはなかったのです。

苛烈に張りつめた焔のなかで、無慈悲なまでに痩せ衰えて、死ぬほど疲れた顏で、息も絶え絶えになって戻ってきても、帰る場所は奪われていました。誰が奪ったのですか?

 慰安婦は、全身全霊を賭けた〈精神の切尖〉で、日本の蛮行を〈ひと突き〉したのです。その眼差しの奥にある「明瞭な知覚」というものに何も学ばなかったのですか?

さも邪心がないように、そうして品格よく振るまう知識人は、結束して威圧的にさえすることがあります。そのような知識人の表面を、私たちは掘り崩していかねばなりません。

 

FB上で、思いもかけずに「仄かな明かり」に遭遇することがあります。絶望し悲嘆にくれるなかで一筋の希望を見たとき、日本にも「良心」が確かに息づいていると知って、私も諦念してはならないと励まされます。今日は、西の方から届いた瞠目する記事をご紹介させていただきます。

 

『安全保障関連法案に反対する九州大学有志の声明』

https://sites.google.com/site/kyudaiampo/seimei

 

『安保関連法案に反対し、衆議院本会議における強行採決に抗議する西南学院大学教員有志の声明』

http://seinan-gu.jimdo.com/

 

注(1)「声低くして」とは竹下登元首相の言葉です。竹下は、胸に『われ万死に値す』を抱きつつ、この人物こそが「なるべくして総理になった」のだと思わせるほどの〈糾合・統合〉を図って自民党王国を立てるために突き進みました。(『知と情-宮澤喜一竹下登の政治観』御厨貴著)

「声低く語れ」とは、情を重んじる〈政治システム〉で如才なく管理していくためのキーワードだったようです。そもそもは有名なアメリカニクソン大統領が演説(1969年11月3日)、>「ノイジー・マジョリティには従わず、サイレント・マイノリティに従う」との名言からのパクリでした。ニクソンは、ベトナム戦争に反対する学生や市民の【反戦運動】をノイジー・マジョリティ(声高な少数派)と揶揄したのです。が、現実には「ニクソン訪中」というショックが世界を圧巻し、そうして1973年、ついに「ベトナム戦争から完全撤退」に至りました。

 

※注2. この人物は、あまりに有名。ずっと後には、日本の政治史の欄外に「地味にシャドーワークに徹して地歩を固めた○○○氏」と記されるかもしれません。安倍晋三が最も信頼する側近の1人といわれ、その屈指の情報収集能力、フットワークの軽さは人々を驚嘆させました。

 

※注3. この人物は、早晩にも忘れ去られるのですから、名前を記すことにします。武藤貴也氏です。自民党の色というものを如何なく見せてくれました。

 

 

NO10 『いったい、誰のための記憶なのか、誰のために?』

今、わたしたちの目の前には 絶対の虚無が坐っています。

あの戦場の戦跡の岩や石に染みついた血液の色。

天と地の間を飛びまわる〈呼び声あるいは叫び声〉。

一面が血の海になった天と地の間の空中で

〈亡霊の大群〉が突きあい突き殺し合っています。

 

みじろぎもせずにじっと見ていると、精神的な失調が謀叛気をおこして

さくさくと裂かれていく私です。

 「私の確信は、どこへ行った?」

 

と、そこへ

 慈悲と寛容の念と平和と愛を、ほどよく調合して服用しなさいと〈高い命令〉が下されました。

 でも…しかし、だが…

脱臼したように項垂れているわたしの眼前に不気味な音を立てて、

隠されていた堆積物が、むっくりと起ち上がってきたのです。

 

それは、錆びた臙脂紫色のような苔むした門でした。

ずっと昔、 蹂躙されて、埋められて隠されたままだった門。

 

しずかに開いたかと思うと、北極光が射してきて、そうして

《幾千とも知れぬ悪魔が、幾万とも知れぬ悪魔が、数え切れぬ無数の悪魔》が現われて

「奇跡についての対話」をはじめたのです。

黙らせようにも黙りません。

 あらあら、あちらの方では過激派のスポークスマンが大っぴらに公開処刑しているではありませんか?

 あなただって、あの共同殺害には加担していますよ。

わたしの部屋のわたしの椅子に腰かけて、

テレビにスイッチ入れて、新聞を広げては、

ある判決やある処刑を見て、喝采しているではありませんか?

 

あなたはたんに聴衆であり、たんに読者であり、

事件から隔たりがある安全な場所にいるのだから、責任は一切問われないと確信しているのですね。

〈共犯意識〉がないと言ったって…あなたは、迫害する群衆の側で傍観していたのですよ。反撃されるなんて思いもよらずに…。

※《幾千とも知れぬ悪魔が…》―ペルシア宗教の経典『ゼンドアベダ』から「古代ペルシア人たちの悪魔の軍隊」から引用。

※「奇跡についての対話」―詩篇第三篇『敵我をなやます』から引用。>「エホバよ、我は義しく行い居るにもかかわらず我われにあたする者ものの数増し加わりていかに蔓延はびこれるや、実に我われにさからひて起おこりたつもの多おほし。かくして我は四方より迫められて今まさに艱難の絶頂に立ちつつあり」

 

もはや、コミュニケーションは不能になったか?

1965年6月22日の前日の21日。その静けさに私は慄然としました。日本のマスコミは、韓国の期待を拒絶するかのように少しも騒ぎ立てていません。早朝から、新聞、テレビニュース、インターネット、ソーシャルメディアを眺めまわしましたが、決定的な局面は何ひとつ起きてはいませんでした。

 そうして【国交正常化50周年】の節目の日、「日韓」の両首脳が顔を合わせる式典はありませんでした。東京、ソウルにおいて別々に開かれた式典への出席は瀬戸際まで発表されず、見るからに土壇場で俄作りに演出されたとの印象は拭えません。好意的な注釈者たちのコメントは、いずれも内実の緊張をしのばせていました。韓国尹炳世(ユン・ビョンセ)外相は、22日、NHKのインタビューに応えて、

>「『明確に解決できれば、再び論じる理由はない』と述べ、今後の政府間協議で解決策に合意することができれば、それを最終決着とし、再び提起することはないという考えを示しました。」

 

 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150622/k10010123841000.html

 

安倍晋三首相は22日の演説で、>「我々は多くの戦略的利益を共有している。現在の北東アジア情勢に鑑かんがみれば」必要であり、だからと、朴大統領に「関係改善への努力」を呼びかけました。

ところで、6月18日安倍首相は、その前提条件として、

日本大使館前で行ってきた水曜集会の中断と少女像の撤去などを要求」していたのですから本心が透けて見えます。自身は、しばしば報道機関に対してクレームをつけ、国会にて批判されても威風堂々と言論の自由だ」と弁解していたのですが、他国の表現の自由には羞恥心もなく踏み込んでいくようです。 

 http://japan.hani.co.kr/arti/politics

また、2012年3月、佐々江賢一郎・日本外務省事務次官が韓国政府に提示したとされる「佐々江案」を基軸として話し合われたが…「佐々江案+αではなく「佐々江案-αにまで下げられていました。

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21059.html

 翌23日、韓国ミン・ギョンウク大統領府報道官のブリーフィングでの発言を見るならば、お互いの疑心暗鬼が見えてきます。

>「慰安婦問題と関連しても『答えが出てくるまでに時間がかかるだろう』とし、行き過ぎた楽観論を警戒した。」

 http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21115.html

 

【日本外務省】公式見解は以下です。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/files/000033344.pdf

※過去「韓国は日本にとって基本的価値を共有する重要な隣国」と表現されていましたが、2015年2月「日韓両国は最も重要な隣国同士」と変更されました。すかさず、韓国外務省は懸念を表明。

 2015年4月29日、訪米した安倍晋三首相は、『米議会上下両院合同会議』で演説しましたが、それは、speechではなく、“address”という特別な待遇でした。

戦後70年という節目に初めて実現する安倍首相の両院合同会議の演説(address)は、世界が注目する演説だったのです。

http://www.nippon.com/ja/features/h00106/

その日が、昭和天皇誕生日の日とは偶然だったのでしょうか?カンニングペーパーに目を落としながら、シャチコチバって演説した安倍首相でしたが、筆頭の言葉は、祖父岸信介を讃えるものでした。*注下記

 もちろん、安倍首相【米国議会演説】に関しても、韓国外交部スポークスマンは、間髪入れずに抗議の声明を発表。

>「韓国政府は,今回の安倍総理の米議会演説が,正しい歴史認識を通じて周辺国との真の和解と協力をなすことができる転換点になり得たにもかかわらず,そのような認識も,真の謝罪もなかったことを非常に遺憾に考える。」

http://www.jiji.com/jc/zc?k=201504/2015043000677&g=pol

※これについて、韓国のネットユーザーはさまざまなコメントを寄せています。>「また遺憾?ほかに言うことはないの?」、 >「『遺憾だ、非常に遺憾だ、強力な遺憾を表明する』この3パターンしか聞いたことがない」etc.

多くの人々が、すでに知っていると思いつつですがご紹介させていただきます。以下の記事は丁寧な画像入りですから(長文)、是非、ご一読を!

http://newskey20xx.net/blog-entry-221.html

 ※上は、偶然辿りつたのですが捧腹絶倒でした。粋な創り。読み終えて、世の中には、名無しのままこのように善行を為す人がいると知り頭を垂れました。

 敗戦後日本70年目の演説は、もちろん慰安婦問題」が中心点ではないと思います。今日も澎湃(ほうはい)たる波浪のように消えることがなかった日本被植民地、被占領地の「声」が聞えてきます。

アジア各地には、韓国の【独立記念館】、中国の【侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館】マレイシア各地に建設されている【殉難華僑追悼碑】他が傲然屹立しています。また日本国内にも犠牲になった無辜の人々を悼む記念碑が立っています。

かつて後進国だった日本がUSA、EUと並んで世界経済三極の一つを占めた頃、新しい衣装の身づくろいにばかり熱心なので、日米財界人会議(1971年)では日本株式会社』と皮肉ったのですが(『戦後史大事典』所収「日本株式会社論」:三省堂1991年)と痛烈に揶揄された日本が54年ぶりの演説の機会に、またもや【8・15】を凝視しないままに終わってしまいました。

*注 「新しい歴史教科書」に最も深く関与しているのが安倍晋三首相ですが、第二次安倍内閣は、祖父岸信介が憑依したかのようです。岸信介は、東條英機内閣の重要閣僚であったことからA級戦犯被疑者だったのですが、不起訴のまま無罪放免となりました。そうして有り得ない快挙なのですが、57年閣総理大臣に就任したのです。早速、日米安保条約強行採決。首相退陣後は《満州人脈》椎名悦三郎、瀬島龍三、笹川良一児玉誉士夫らと【国際勝共連合】を結成して気炎を上げていました。 

 

慰安婦』の拒絶とは峻厳なるものです

かねてより、慰安婦」と支援者は、「過去の歴史問題を解決しなければ、韓日の共存もない」と訴えてきました。

しかし、6月22日の記念式典には滑り込みセーフの妥協策が露わとなって、懸念と抗議の声が発せられています。

2015年6月23日、慰安婦被害者たち、慰安婦問題解決のために運動をしてきた『韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)』、『東アジアの平和活動を行う日韓市民宣言実践協議会』は、ソウル〈駐韓日本大使館の前で記者会見を開き、「慰安婦問題は、日本が責任を認めて公式謝罪や法的賠償を行い、教科書に記録するとともに再発防止を約束するなどを通じて解決しなければならない」と主張しました。

 

会見に参加した慰安婦被害者キム・ボクドンさんは

>「朴大統領は問題を誤魔化すことなく、慰安婦被害など過去の歴史が清算されるように力を合わせてもらいたい。日本政府も先祖が間違っているのに対して、言い訳せず、謝罪し、私たちの名誉も回復させてほしい」と力強く演説しました。

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/21114.html

 2015年4月23日、参議院議員会館で行われた集会【安倍首相訪米前 緊急シンポジウム「慰安婦」問題、解決は可能だ!!】では、簡潔に提言されていました。http://iwj.co.jp/wj/open/archives/243437

 

次のような被害回復措置をとることを求めています。

1)翻すことのできない明確で公式な方法で謝罪すること
2
)謝罪の証として被害者に賠償すること
3
)真相究明:日本政府保有資料の全面公開
       国内外でのさらなる資料調査
       国内外の被害者および関係者へのヒアリング
4
)再発防止措置:義務教育課程の教科書への記述を含む学校教育・社会教育の実施追悼事業の実施

誤った歴史認識に基づく公人の発言の禁止、および同様の発言への明確で公式な反駁等

 

人々に沁み込んでしまった錯覚を打ち砕くとは

 慰安婦」の嗟嘆の声が聞こえるでしょうか?先に突き刺さっていた棘は、いまだ疼いているというのに、さらに内奥めがけて、日本国は、またもや新しい棘で突き刺さってくるのです。

ふと、今日の日本の心を知ると、過去へは戻りえないという想念が過るでしょう。彼女たちは、またもや悲しみの気分に襲われています。

 糸は断ち切られました。が、そもそも、誰が?切ったのでしょうか?

朴裕河著『帝国の慰安婦』でも、しばしば批判の象徴として「拒絶」が何度もクローズアップされています。

さて、その「拒絶」について考察してみたいと思います。その言葉の響きは、議論を許さない、絶対的な厳命的なものであるとイメージさせます。1991年、火蓋を切った「慰安婦問題」ですが、その前までは捨て置かれていたのです。乗り越えがたい苦悩、耐えがたい貧しさを顧みなかったのは誰だったのでしょう。

 私は、ブログ記事NO1【朴裕河『帝国の慰安婦』批判(1)〈拒絶するという序列化のロジック〉】に書いています。

>「搾取され困窮するなかで、人は受動的・消極的に運命を受動するばかりではなく「反抗」するようにもなります。緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと運動する中で、被抑圧者の意識は訓練され結集され、そうして組織していくようになると思います。それは、生命衝動の激烈さとの《対決》という心理的体験を通じて獲得されていくものです。とはいえ、その意識性の萌芽を意識性にまで成長させるためには、何らかの意図的な働きかけがなくてはなりません。支援する「運動体」の助けがあればこそ、今日があると思います。」

  戦後、自分を縛っていたいくつもの錠前が外されたとはいっても、やはり「たった一人」で、寄る辺ない身の上で生きるしかなかったのです。

金学順さんが初めて告発したときの映像を観たことはあるでしょうか?溢れる泪を拭いもせずに慟哭しつつ、けれども控えめに自身の人生の一隅を語りました。

自らが選んだのではありませんでした。しかし、多数者には「まつろわない」、まったき他者として「一人きり」で生きねばならなかったのです。生存していたこと自体が奇跡のようなものです。

「運動」のなかで多勢無勢に人々が駆け寄ってきても、深い懐疑と不信の念がすぐに消えるものではありません。自らを欺かず、また欺かれないためには「一人きり」に留まろうとするでしょう。ナヌムの家のドキュメントを是非とも観てください。慰安婦たちは気難しいのです。

 

『国民基金』では、被害者の恨は晴れません。

これは、尹貞玉氏の言葉です。ことごとく誤解されて揶揄されてきました。その湧き出た、張り出した、無秩序にみえる上昇。

他者からの承認を求める人間の〈欲望〉は本源的に不均衡をはらんでいるのであり、優越者を追いつこうとします。慰安婦と支援の人々は乗り越えのために、時には過剰なほどの膨張をして世論に訴えもしました。

それは「慰安婦」を支援する韓国民衆が、身をもって寄り添ったとき、〈苦難時代の民族の象徴〉〈暗黒時代の歴史の主人公〉であるととらえるようになったからです。胸の奥深くにしまわれていた「自尊心と名誉の回復を願って止まない心を表出した言葉に、多くの人々は揺り動かされました。多分、「『国民基金』では、被害者の恨は晴れません。」との言葉を、韓国の民衆の多くは非難しないものと思います。

世直ししようとするのですから、それは、政治的なものにならざるを得ません

 朝日新聞は、精一杯の善意から数々の記事を掲載していますが、提言は以下に集約されていると思います。

>「偏狭なナショナリズムや勝ち負けを競うかのような不毛な対抗意識にとらわれている限り、政治と外交を縛る不毛の連鎖は、今後も断ち切れない。」

 前回、「民族」、「ナショナリズムについて若干書きました。今般、「ナショナリズム」を歴史の脈略で紐解かないまま短絡的に非難する傾向が強まってきたように感じます。そのパッションを、群れあって恨みをはらしたい「畜群本能」でもあるかのように先入観から発言しているようです。その先入観が偏見にまで固まっていった人もいます。
「何がそうさせるか」と思いを巡らせるたとき、日本が、隣国「韓国・朝鮮」の文化をあまりにも知っていないと思い至ります。それでは、例えば、キャンドルを手にした群衆の祝祭的なデモの心情は見ても見えないでしょう。

 

 韓国の「惻隠の情」について

東アジアの国々のなかで朝鮮は最も儒教的なですが、以外に知られていないようです。社会的弱者である慰安婦に寄り添うとは、「惻隠の情(そくいんのじょう)」からです。それは、東アジアの伝統において語られていた道徳、すなわち「道」と「道の力」としての「徳」についての思惟です。

 中国の儒家孟子道徳学説【四端説】は、朝鮮の人々の日々の暮らしのなかに今日でも息づいているといえます。

中国では明朝(1368~1644年)の忠臣が一掃された後でも、朝鮮の国王と延臣は明朝を崇拝し続けたのでした。

李朝の前は高麗王朝(918年~1392年)でした。高麗時代、政治理念は儒教したが、「仏教」を手厚く保護しまし、庶民にも普及していきましたから、朝鮮の文化の基層には実は仏教の「仁」があると理解しなければならないと思います。※ここでは紙幅の関係上省略しますが、『世界大百科事典13P164~166』に詳しいので是非ご参照ください)。儒教宇宙論とそれが意味するあらゆるものは、国家関係を含めて、朝鮮人にとって極めて神聖なものでした。朝鮮では、朝鮮通信使にみられるように、朝鮮の儒教の学問を日本人が羨望して求めてきたことが、新鮮な記憶としてあったのです。ですから、近代の日本が西洋を模倣しようとする試みを「嫌悪感」をもって見つめていたのは事実です。(問題だ!)

 

いずれ、記事として丁寧に書きますが、今回、急ぎ端的に例を述べたいと思います。それは、洞祭〈村まつりでの風刺性に富んだ仮面劇にみることができますし、また、孔玉振さんの一人唱舞劇『ピョンシンチュム(病身踊り)を通して知ることができます。

儒教に呪縛されていた李朝500年は、朱子学の教化を図ったのですが…民衆はスルリと抜けだして、祭りや民衆の広場で「仮面劇」という隠れ蓑を着て自由奔放に面白可笑しく両班階級を嘲弄しうっ憤晴らししたのです。登場人物はすべてがデフォルメされ、劇は視覚的に戯曲化されています。朝鮮には古くから「大路広路に歌え」という諺がありますが、それは広場で、共に悲しみも苦しみも陶酔したように歌い狂えば、民の慟哭はかぎりなく天空に飛翔していくというものです。

このような文化は日本には見られないと思われます。「日本の封建社会では、士族(武士)が支配権力を握って水も漏らさぬように民を管理監督していたからです。一方、朝鮮は「文人政治」であり、支配者たりうる根拠は「文の力」すなわち朱子学の学識の深さであると信じられていました。そうして何よりも「徳」が肝要とされていたのです。ことに為政者は「徳」を肝に銘じなければなりませんでした。庶民が祭りの仮面劇で両班デフォルメしたといっても目くじら立ててはならないのです。

 

【恨】とは、民衆の【恨の美学】

遠からず項を新しく立てて記事に書くつもりですが、日本ではとかく誤解されて喧しく揶揄される【恨】とは、民衆の【恨の美学】から理解をすすめていただきたいと望んでいます。

 「恨」とは、日本では怨むと同意語です。人から不利益を受けたとき、その人に対する不満や不快感を抱き続ける、復讐心を指します。

しかし、朝鮮の『恨』」とは、他者に向かうものではなく、むしろ自分に向けられるものです。不覚にも落ちてしまった無念さや悲哀を嘆き、何がそうさせたと自分で自分を打つものです無常観であり、また悲惨な境遇からの解放願望という昇華もあります。「歴史」でいうならば、帝国主義日本の悪辣な陰謀に対して無為無策だったことを悔恨して「二度と繰り返すまい」と誓いを立てたことを指すと思います。

もちろん、たんに不甲斐ない時分を自嘲して「恨」ということもあります。

因みに、「恨」は、한의と書きますし、「怨み・怨み」とは원한と書きます。「うらみ」から他者に対して刃を立てる場合は復讐心といいます。

ところで、【ウリ】との文言もひじょうに誤解されています。「嫌韓をいうとき嘲笑うようにバッシングされる言葉です。その出所が、韓国への留学組、または駐在者の経験測で語られていることが多く目を覆いたい惨状と思います。

韓国をエスノセントリズム」あるいは、「韓民族優越主義」と言いつのり、果てはウリナライズム』などと言ってのける人がいます。まさに「講釈師 見てきたような嘘をつき」「講釈師 扇で嘘を叩き出し」を連想し苦笑してしまいます。

凝集性の統一のシンボルのように「ウリ」が唱えられるようになったのは、まさに日本帝国主義時代でした。日本の苛烈な収奪、弾圧、暴力のなかでの同化政策に対して朝鮮の民衆はすべてが立ち上がって抗議しましたが、なかでも朝鮮語抹殺政策」は徹底したものであり、多くの朝鮮語学者が投獄、死刑の憂き目にあったのです。

このような文化運動における「民衆の蜂起」は、新たに項を立てて記事にしなくてはと考えています。紙幅の関係上、今回は、一点のみ記したいと思います。

日帝時代、学校の教科書から朝鮮語は削除され〈日本語常用〉を強要していましたが、1939年には、朝鮮語による一切の刊行物、新聞や雑誌が閉刊されてしまったのです。そのような不遇ななかで、朝鮮語学者を中心とする言論人、文人をふくむ知識人が総結集して朝鮮語研究会」をつくりました。このうねりは瞬く間に社会的脚光をあび、人々は「ウリ文化運動」と呼んで集い、支援していきました。

「ウリ」とは、そのような感情の昂揚感から共族感情へとまとまっていくなかで合言葉のように言われた言葉なのです。

そのような植民地支配下での絶え間ない民族の闘い」の歴史を紐解くと、目頭が熱くなってしまいます。ことに194210月、朝鮮語学会の幹部および編集委員、会員33名が拘禁され師と仰がれた2名が拷問によって獄死、他も1945年8月15日解放の日まで拘留されていたという惨い事実には胸を突かれました。

 ところが、光復節雲散霧消していた仲間たちは馳せ参じ、12月25日【ハングル記念日】を前にして、朝鮮語辞典は発刊されたのです。このようなうねりが朝鮮パッションなのです。

*ウキペディアにおける朝鮮(韓国)、中国に関する記事は目を覆いたい惨状ですが、薄い知識から「ハングル優越主義」を書いた御仁がいると知り、何をかいわんやと虚しくなります。

 ところで、作家、白楽晴氏は、文学活動において閉鎖的な民族主義へと流れ込む可能性を警戒し、つねに>「真摯な苦悩」を続けています。1960年代、市民文学論を提案した時から以下のように書いています。

>「リアリズムの本質を、社会と人間を見るある種の『円熟した観点』と、それに伴う『均衡』として把握」したい。(『民族文学と世界文学Ⅰ』P25

http://jp.changbi.com/?p=173

 

>「1987年の六月抗争以後の20数年の方が明白に「我々の時代」となるだろう。第三世界的認識』を盾に先進的な視角を確保することによって私たちの文学も世界文学の先頭隊列に合流することができることを想起しようとしていた。」

http://jp.changbi.com/?page=128&paged=22

 

 なぜ?挺対協の名称を変えないのか

日本のリベラルを自負する知識人たちが、鬼の首をとったかのように「なぜ?挺対協の名称を変えないのか」発言します。素朴な疑問であるかもしれません。これもまた、実は、「朝鮮の歴史」を丁寧に読むならば理解できるはずです。

挺身隊(女子挺身隊)とは、1944年8月【女子挺身勤労令】が制定されて以後、植民地朝鮮でも施行されたものです。1944年、名古屋の三菱重工名古屋航空機製作所道徳工場」に動員された【半島女子挺身隊】の写真は、『進駐軍が写したフクオカ戦後写真集』(西図脇出版1983年)にも掲載されていました。戦後、その写真集から〈あどけない少女たち〉の顏写真を見た韓国人は皆々胸を突かれたてしまったのです。

実際、挺身隊として連れて行かれた少女のなかには音信不通になったままになったので、家族は解放後、諦めることなく探し続けていました。日本植民地統治下の朝鮮では、「挺身隊として徴集されると慰安婦にさせられる」と噂されていたこともあり、多くの人々は真相が明らかになるまで、慰安婦と挺身隊を混同していきました。

儒教の国、韓国では「売春婦」とは露骨に差別されるものであり、従軍慰安婦との呼び名を避けたとの意見もあります。また、アメリカ占領下において、アメリカ軍の性奴隷にされていた女性がいたのですが、韓国警察や韓国公務員は「挺身隊」と呼びました。尹貞玉氏は、1980年、従軍慰安婦の調査開始しジェンダーの視点」からの見直しを行った初めての韓国人知識人です。すでにアメリカ軍の悪行も調査していました。

1990年には、実態の大凡が見えてきましたが韓国においては軍隊の性奴隷を総じて「挺身隊」と呼び慣わしていたので【韓国挺身隊問題対策協議会】という名称を変更しませんでした。

日本軍慰安所では、実際に性病防止のために未婚の若い女性を探していたのは事実であり、連行時「処女供出」とも呼ばれたたとの証言も多く残されています。

 尹静慕著、小説『母・従軍慰安婦-母さんは『朝鮮ピー』と呼ばれた』(神戸学生・青年センター)は、日韓で大きな話題になりました。実は、92年刊行される前、82年、初版されていた本です。本の前書きに、以下のように書かれています。

「挺身隊慰安婦に関する、胸ふたぎ、血のわななく事実を整理した後…」

尹静慕氏は〈80年〉着手したといいます。その動機は、>「80年、冬ハンナム洞の飲み屋街を通りかかった時、一人の酒に酔った白人が小柄な韓国人女性の長い髪を無理矢理ひっぱていくのを目撃して、大きな衝撃を受けた。」と書かれています。

『朝鮮実録』ほか、新聞、歴史資料にあたって書いたそうです。「挺隊協」にも取材したようです。が、当時は限られた資料による以外になかったでしょう。故意に捏造したわけではありません。その時は、世界中が「慰安婦について知ってはいなかったのです。

事実として、元慰安婦には朝鮮人の若い女性が多かったと、戦後の証言者の多くが述べています。1980年には、花柳界の積極的予防法』(1939年、陸軍軍医少尉・麻生徹男)に、「衛生的なる共同便所」と書かれていたと韓国でも知られるようになっていました。
つまり、尹貞玉氏も、尹静慕氏も共にジェンダーの視点」から開始していたのです。

小説『母・従軍慰安婦-母さんは『朝鮮ピー』と呼ばれた』刊行のために骨折りした歴史家金英達氏は、後書き解説にて「歴史の暗部に証明を」と題して以下のように書いています。

>「朝鮮人女性慰安婦は、生き残って朝鮮に帰ることができた者も、そのあまりに凌辱的な体験のゆえに、かたく口を閉ざしている人がほとんどだ。また、朝鮮の儒教社会の貞操観念に呪縛されるなかで、故郷の家族のもとに帰ることもできなかった人が多い。どこからも謝罪も保障もなく、慰安所生活の中で身体をこわし、社会からも疎外されてきたのが、慰安婦の戦後であった」

 もちろん、歴史家として、以下のように釘を刺しています。

>「いずれにしても、歴史的事実としても問題状況においても、女子挺身隊と従軍慰安婦はまったく違うものであるから、両者をはきりと区別するために、言葉の混用はさけるべきである」

 私は【韓国挺身隊問題対策協議会】との名称に歴史を読みます。朝鮮における「女子挺身隊」との語彙は、その背後で働く諸力に気づくためにも消すことのできない言葉であるように私は思っています。まずは日本帝国主義の植民地支配があり、「戦場」という構造的暴力のなかで慰安婦問題をとらえたいのだと思います。そこには慰安婦を取り巻くあらゆるものを包括して、不体裁さえも「ありのままに語る」という潔さがあります。

 

 自己犠牲という行為をあえて引き受ける主体性

慰安婦と支援者は、自分たちが哀惜する死者を知っています。戦争の犠牲者のあらゆる死を悼んでいます。その連帯が、〈一つの核〉をつくって四半世紀以上、内的な親密性をもって、忍耐しながら期待を抱きながら運動は継続してきたのです。時には、「ゆらぎ」という不均衡状態におちいったことがあったかもしれません。

 世の中の人々は、慰安婦〈呼び声あるいは叫び声〉を、さも喧噪でもあるかのように非難します。が、ひとり一人は、この出来事について、熟慮してきたのであり、すぐには現われない遠くにある目標に向かってそれぞれの流儀で闘ってきたのですから、静かですし、実は孤独だと思います。(たった一人で耐えていた時は、精神のバランスが硬化して、もはや選択の自由を喪失していました。)

朴裕河『帝国の慰安婦には、ことに【第4部 第2章】P297~において、ひたすらに、>「日本政府が作った基金への批判と攻撃」を続ける《挺対協》」と批判し、>「慰安婦は「韓国」の自尊心のために利用されてきた」と書いています。

 >「韓国社会や支援団体は、あるがままの当事者よりも、当事者を通して、独立的で誇り高い朝鮮やその構成員としての自分たちを見出そうとしてきた。」167

何のために知識の乏しい日本で刊行したのでしょうか?韓国においては総スカンを食らっているのに、日本では増刷が続き、もはや8万部突破したといいます。

ここで、慰安婦を支援し続けた人々が、断じて自らの利益のために利用してきたのではないと主張するために「運動」と支援について考察してみたいと思います。

支援とは当該の「自己決定を支援する」のがモットーと考えますが、現場ではしばしば「自己決定の意味について過大な拡張」が起きたり、それへの反発として「限定」が起きたりします。私は、ブログ記事NO1【朴裕河『帝国の慰安婦』批判(1)〈拒絶するという序列化のロジック〉】にて大沼保昭氏を批判して「恩恵的関係意識」について書きました。あくまでも与えるという「所与の関係」憐憫の情とは、

>「警戒するべきナルシシズムです。なぜなら、その疾しい良心が見咎められると忽ちのうちに「差別」に転じてしまうからです。」と。

 「運動」において協同していくとき、人間のナルシシズムの芯という業の深さは避けて通ることができないと思います。そこには本性的な「利己主義と利他主義の対立が生じてくるのです。

ここで唐突に自らの苦い体験を記したいと思います。しばしば「運動」には知識人がやってきます。そもそもは援助思想が動機であったと思われますが、多くの人は現場で額に汗して働くことはありません。その人は、身をさらさないまでも後方から「知識」によって支援するというわけです。やがてその観察と実験の記録を自らの栄達の為に「論文」に仕上げていきます。

功を為し名を遂げて大学教授にまでなると、多忙のためにか姿を見せなくなります。しかしまた、「運動の虚偽と虚構」とは、裾野で働く無名の支援者の思想の質にもみることができます。「運動体」としても、その知識人の名声や経歴を利用して化粧して窮地から抜け出そうとの計算するのです。互いにかすめとりながら大きくなっていこうとするわけです。(ひじょうに稀には高貴な真実な人がいました。)

 どのような組織も長い歳月を越えるうちに形骸化していき内部に「権力支配関係」を生み出してしまうのかもしれません。だからそこに淘汰が起きます。その権力関係・抑圧・排除に連なる危険性はやがては内部分裂を引き起こし、そうして、その組織は内部から瓦解していくことになるのです。(あるいは、支援者がみな立ち去って有名無実な組織になると思います。)

 長々と書きましたが、韓国の「慰安婦の支援が1990年以降、紆余曲折はありながらも今日まで断絶されることがなかったとは驚異ともいえるのです。これは、韓国の民衆の「意志」であると思います。尊敬に値します。

 

〈一つの核〉をつくって連帯しつづけるということ

虚偽や虚飾があれば、長続きはしないものです。慰安婦の支援の運動に連なる人々は、《正義》が行われることを望んで、「何かを育てる」ために働いたのですが、

そこには「配慮」―まだ表現されていない欲求への反応として「応答」していたのです。そこには、《応答する》《責任に応える》という用意がいつもできていたのです。

 何よりも、相互のあいだに「尊敬」があったと思います。尊敬は、語源respicereに従うならば、人をあるがままに見、その特異な個性を知って、その人自身としてありのままに成長し発達するべきであるという関心を示しているというのが前提になります。

誰かを支配し、搾取することなしに〈独立を成就〉した人を尊敬するのですから、私に仕えるためにではなく、自分自身の方法で成長し発達することを望む行為を尊敬するといいます。(エーリッヒ・フロム愛の理論』を援用)

エーリッヒ・フロムは、配慮と責任とは、知識によって導かれるといい、愛の一局面をなすところの知識は対象にとどまることなく中核にまで侵入するといいます。

私は、韓国の『韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)』、『東アジアの平和活動を行う日韓市民宣言実践協議会』、そして日本の「日本軍『慰安婦』問題解決全国行動」と「日本の戦争責任資料センター」「女たちの戦争と平和資料館」(wamが長い歳月、運動を継続してきたとは、互いの間に「尊敬」があるからだと思っています。

ブログNO1『朴裕河批判』にも書きましたが、

>「搾取され困窮するなかで、人は受動的・消極的に運命を受動するばかりではなく『反抗』するようにもなります。緊張から弛緩へ、弛緩から緊張へと運動する中で、被抑圧者の意識は訓練され結集され、そうして組織していくようになると思います。それは、生命衝動の激烈さとの《対決》という心理的体験を通じて獲得されていくものです。とはいえ、その意識性の萌芽を「意識性」にまで成長させるためには、何らかの意図的な働きかけがなくてはなりません。支援する「運動体」の助けがあればこそ、今日があると思います。」

 

ヴェールに霞むように輪郭が見えなくなっていく戦争の「記録」が多くあります。

語り得ぬものを日本の短歌に読んだ詩人〈川野順〉氏がいます。1990年、静かに亡くなりました。川野さんは1995年、韓国慶尚北道に生まれましたが、音楽家になることをめざして1933年渡日しました。18歳でした。

ところが不運にも37年ハンセン病に罹患しました。そうして療養所に強制的に送られた後、日本政府の施策によって外に出ることはありませんでした。(患者を終身強制隔離して絶滅させようという政策がとられていました。)

・日本の風土に骨を埋むべく決めたる今も母国を恋えり

・うつしみの心の奥にて泣いている母国を抱き安住日本

・劣等感捨てよと手紙給いたり答えん手紙のまとまり難し

・出逢いたる人らはみんな日本人病み継ぐ今日に沁みておもほゆ

・韓国名堂々と名のらぬを責むる前に君よ胸に手をおきて考えてみよ

・韓国名馴染まぬ土地にくらし居て日本名使う縋るごとくに

〈晩年の作品から〉

・しおれしを甦らせて降る雨は天の恵みというにふさわし

 かつて日本人のなかには我を忘れたように、詩人川田順〉氏の作品を編んで出版した人がいました。きっと、今でも、ひそかに生き続けていると思います。

※膨大な数の作品のなかで、「韓国」や「祖国」に触れる歌は皆無に近く稀です。が、この紙上ではあえて川田氏の「民族」への慕情があふれる作品を探して抜粋してみました。

 1995年、朝鮮人強制連行の真相を究明する全国大会」会場での出来事でした。見知らぬ一人の男性が駆け寄ってきたのです。拙い私の発言に感動したといい熱く手を握ってきました。そうして連絡先を尋ねられました。と、数日後、ビデオテープが一本送られてきました。タイトルが丁寧に毛筆にて書かれています。

『消えた51号棟』。観ると、1994年11月17日テレビ朝日報道ステーションで放映されたドキュメントでした。三井石炭鉱業馬渡社宅解体に長年反対し続けてきた裵東録(ペ・トンノク)さんの闘いの記録でした。

戦前、父親は三井三池炭鉱に強制連行され強制労働させられました。その在日朝鮮人の住居が「51号棟」です。地域の反対運動を無視して「三井三池」は解体を決行しました。交渉時、あまりに官僚的な態度で沈黙するばかりの相手方に対して、とうとう裵さんのオモニが、上手とはいえない日本語で「このままじゃ苦しくて生きられないよ」と思わずテーブルを叩いて抗議しています。(日本語が不得手な外国人が、憤る感情を伝えようとするとき、ボキャブラリーが少ないために表現は直截的で激しいものになります。)

裵さんは、「1945年以前の事実を隠蔽して風化させようというんですか!」と強く抗議しましたが…暖簾に腕押しでしかありませんでした。その時、司会者、久米宏氏は、真面目に真摯に事柄を取り上げていました。2015年の今日、このようなテレビ報道を観ることは不可能です。無念に思います。

 今回のタイトルは、『いったい、誰のための記憶なのか、誰のために?』です。

私には、まだまだ知らない事実が途方もなくあります。ひょんなことから「知らないということを知る」と、〈ほんとう〉を知ることの難しさを痛感しますが、聞こえないものに耳を澄ませて、捉えがたいものに触れようと努めたいと思っています。

(続)

朴裕河批判8『われら廉直なる者』―善か?愚か?

【米歴史研究者らの声明】201557日発表)

それは、晩鐘の祈りのなかで唱えられた「道徳」のように聞こえます。

溢れるばかりの自己の情感を抑制しつつ、厳かに立って、施し与えるかのように「和解と赦し」を勧めています。

その真髄は高潔であるのでしょう。文面は、温厚篤実です。誰もが好感をもつ「善良愛すべき」ものです。

 しかし、私は、以下の一文のために、〈有難い薬〉でもあるかのように飲み干すわけにはいきません。

 >「その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる『慰安婦』制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」

 「日本・韓国・中国」が並置されています。さて、この三者は、望ましい類似になり得るのでしょうか。その背景と実相が著しく違う以上、その「諸原因」をも考慮しなければならないはずです。人文科学の専門家が、なぜ?複雑な「事実」を折りたたんでしまったのでしょうか?

 案の定、同日5月7日東洋経済編集局記者の福田恵介氏は、「日米歴史家、韓国メディアの“変化球”に困惑 なぜ『55日の日米声明』をネジ曲げるのか」と題して記事に書きました。

>「声明は韓国の民族主義的言辞をも戒めながら、安倍首相の良心に誠実に訴え、平和や人権・民主主義という価値を追求してきた日本がこの問題の解決を主導すべきであり、また今年は絶好の機会と訴えている。」

 http://toyokeizai.net/articles/-/68890

 当然のこと、インターネットやソーシャルメディアでは、自由史観論者、右翼が、有象無象に「韓国と中国の民族主義的な暴言」の一句のみを取り上げて奇声を上げています。

 

 新しい衣装には、新しい仮面で

6月5日、NHKニュース「おはよう日本を観たとき、さもありなんと悄然としてしまいました。

【“歴史認識”声明が問いかけるものは】と題して、一部分を抜き出してクローズアップしていました。

>「この(慰安婦)問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」

 歴史家秦郁彦氏も登場し、>「今回の声明に賛同できない」と表明しています。

 ハーバード大学 アンドルー・ゴードン教授は、インタビューに答えて

>「私たちが重要だと考えたのは、歴史評価における偏狭なナショナリズムや言論に対する制限が、日本だけの問題ではないということです。」

 と発言しました。と、そこに、画像として、朴裕河著『帝国の慰安婦がアップされたのです。テロップとして20万人が強制連行実態と異なる」→「裁判所が本の出版差し止め」と映し出されていました。

http://www.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2015/06/0605.html

 筆者のブログのテーマは、朴裕河著『帝国の慰安婦』批判です。ここにも、朴氏が、現代日本の社会的志向を読んだうえで、いかにも「果実」を取り出すように『慰安婦問題』を提出していたことが伺えます。

>「挺対協の主な要求である日本の法的賠償、国会決議による謝罪と賠償は事実上実現可能性がなく、要求の根拠も不十分だと指摘した」東亜日報 朴裕河2013930日)

朴氏の主張は、「道義的責任」を認めながらも決して「法的責任」を認めようとしないのですが、これは、大沼保昭氏にぴたりと一致するものです。」

>「過剰なナショナリズムをただそうとしなかった多くの韓国知識人。韓国側の頑な償い拒否に対して(被害者を心理的に抑圧する独善的要素があることを)批判しようとしなかった日本の「左派」や「リベラル」な知識人とメディア。」

 と批判しながら、2013年5月25日、江川昭子氏のインタビューで自身の心情を以下のように吐露しています。

>「真摯に謝り、精一杯の誠意を示した。なのに、ゼロ回答か…」という失望感が広がりました。そこから、「中韓に謝ってもいいことない。かえって居丈高な態度をとられるじゃないか。欧米もなんだ。自分たちだって植民地支配をしていたし、性の問題で後ろめたいことがあるのに、善人ぶってお説教か」という怒りが出てきた。」

 http://bylines.news.yahoo.co.jp/egawashoko/20130525-00025178/

 朴裕河氏とは、「植民地支配」が生み出した落とし子なのでしょうか。『帝国の慰安婦は、その途方もない誤謬のために多くの批判を受けているのですが、対して、ご当人は、魔女裁判にでも遭っているかのようにツイッターで呟いていました。そうして、なぜなのか、精力的に日本各地にて講演活動を展開しています。また、居住する韓国ではなくニッポンにて精力的に「反論」を展開しています。私は、そこに人間の下に潜んでいる怪異の貌というものを見てしまいます。「誹られた」とたじろぎ…いったん心の内側にひっこんだかと思うと、状況の変化を読んで、さらに武装してそろりそろりと踏み込んでくるのです。実に胆力のある人物といえます。

 

「歴史の真摯さ」と知識人

さて、6月5日朝日新聞朝刊【オピニオン】にて、【米歴史研究者らの声明】187名のメンバーでもある〈日本近現代史〉の学者キャロル・グラックさんが、インタビューに答えて「米歴史家らの」の懸念について語っていました。筆頭、大きく『史実は動かない 慰安婦への視点 現在の価値観で』と題されています。

 インタビューに応えて、>「史実は動きません」と実に明快に語っていますが、これは、著書『歴史で考える』岩波書店2007年)からわかりますが、>「歴史的プロセスにまつわる複雑さをけっして捨象することなく」また、>「抑圧するさまざまな記憶の配置」の複雑さといったものを捨象することなく描き出さなければならないとしています。

エドワード・サイードと親しかったキャロルさんは、「学問」と「実践」との間に横たわる溝についても繊細な検討を怠りません。さまざまな記憶が響きあうのを聴きながら、一つの苦難の出来事を、さらに他の苦難の出来事と結びつけて、《未来を記憶する》必要を唱えています。

※キャロル・グラックさんは、米大統領選においてオバマ氏の対日政策顧問に名を連ねた学者でもありますが、米大統領選挙に勝利したバラク・オバマの成功が「歴史的」と表現されることには警鐘を鳴らしてもいます。壮大で誇張されたレトリックに目くらませされる普通の人々をいつも杞憂しているようです。

敬念の情を抱いているキャロル・グラック氏ですが、文中、私に突き刺さってくる棘があります。

Q―声明では日本だけでなく、韓国や中国の「民族主義的な暴言」についても指摘しました。

>「この表現は、最初の草稿から入っていました。いずれの国もナショナリズムに歴史を利用しています。国内向けの行動ですが、大変に危険です。だからこそ海外の研究者や政治家がこの問題を気にしているのです。東アジアが歴史問題をめぐって不要な対立に陥ることは誰も望んでいません」

 キャロル・グラックさんは、「突き詰めていくならば、蓋然性の高い真実はある」として実証主義にこだわる歴史家であると思います。ここでは、1990年以降の「慰安婦」の闘いを支援する「運動体」を非難したわけではなく、国家主義による国家イデオロギーを強く批判していると、著作に親しんでいる人にはわかると思います。

 しかし、マスメディアにおいても【米国の日本研究者らの声明文】にある、一句、>「韓国や中国の『民族主義的な暴言』」との表現が闊歩しているのを見るとき、被植民地国、また被占領地の人々は敏感にならざるを得ません。

 なぜなら、例えば、朝日新聞慰安婦問題」からつくられた【第三委員会検証報告】にあった北岡伸一氏の「韓国における過激な慰安婦問題批判に弾みをつけ、さらに過激化させた」との言説がオーバーラップしてくるからです。

また、今般の櫻井良子氏の暴言、また政治家の妄言etc.には、敗戦後日本の〈指導者〉と〈大衆〉の関係に、相も変わらず「二重の錯誤・悲劇」が内包されていることを知っています。私は深い懐疑と不信感を抱いてしまいます。

 日本の政治指導者は、表で「戦後50年国会決議」を披露し、裏で「自虐史観」批判と叫びながら「日本軍〈慰安婦〉問題は国内外の反日勢力の陰謀」「南京大虐殺はなかった」と喧伝してきました。(翌年「新しい歴史教科書をつくる会」を発足)※そもそも、「戦後50年国会決議」の内容とは、過去の欧米列強の植民地争奪戦をあげて、日本の〈侵略〉は止むを得ないものであったと矮小化したものであり、そこには真の反省が伺えない。それは「儀礼的に謝った」というポーズにも読めるものでした。

 ナショナリズム】は、いつも喧々ごうごうとして語られる

さて、日本では実感として日常的に「民族」なるものを意識する人は少ないと思います。しかし、のりこえ難い苦悩、耐えがたい貧しさに追い詰められた被植民地、被占領地の人々は、植民地主義という侵略・支配の蛮行に対して、「力」として対抗するためには「民族」がシンボルになるしかありませんでした。

 私は、ブログNO1【朴裕河『帝国の慰安婦』を批判する(1)「拒絶するという序列化のロジック」】に、ベネディクト・アンダーソン著『想像の共同体』を援用して「民族主義」について書きました。

 それは、世界システム論から「巨視的歴史理論」で読むならば、後発の日本国は植民地拡張を急ぐために、上からのナショナリズム操作「逆転した愛国主義」を創造する以外にはなかったこと。その必要から日本は《ネイション》としての結束の強化をはかり、(自らのネイションに対する愛情を、他国への敵対意識に転化させてネイションとしての結束意識を強化する)いっそう推進していったこと。そうして、急進的な社会変革のための願望のシンボルとして「天皇」は必要とされた事実について書きました。(道具としての『天皇』)

 

「民族」のディレンマについて、有名なニーチェの言葉があります。

>「恐らく、人間の前史時代を通じて、この記憶術よりも恐ろしく無意味なものはないといってもいい。人間が自分のために記憶をつくることが必要だと感じたとき、いまだかつて血の殉教や血の犠牲の拷問なしに事がすんだためしはなかったのだ。最も戦慄するべき生贄と最も醜悪な抵当、最も忌まわしい切断(筆者注※去勢などをさす)。一切の宗教的儀礼が行われたのだ…略。思想家たる民族を育てあげるには、地上でどれほどの苦難が払われたかは、もはや明らかであろう。」ニーチェ『道徳の系譜』木場深定訳 岩波文庫P6668

 「慰安婦」や、その支援者たちの闘いを尊敬に飢えている「恐喝団体」でもあるかのように触れ回るのは、いったい、どのような計略によるのでしょうか?

 1991年以来、「ああそうだ、これがあれであったのだ」とでもいうように、たんに儀礼的に一礼しただけで、十分に敬意を表したと思い込んでいるのでしょうか?

 

奇妙なる敬虔なシニシズムを伴った時代

資本主義《国家》は〈貨幣-資本〉のシステムで「一切の障碍や束縛をくつがえす普遍的なコスモポリタンのエネルギーをもって膨張する」のですが、人々は「公正」と「正義」を前にすると自己の欲望を抑制しようとしました。欧米では、第二次世界大戦まで非快楽主義的功利主義という倫理学説が支配的であったのです。また、ベンサム、ミルなどの〈功利主義〉のスローガン「最大多数の最大幸福」がモラルではあったのです。

しかし、多くは経済的金融的メカニズムのなかで、実は、無意識的に〈利害〉にもとづく反動的な欲望が揺れ動くのであり、意識的には〈性急〉で飽くことをしらぬ【乱開発】をしていくのでした。まさに貨幣愛と個人主義の蔓延のなかで、貨幣が貨幣を生み、価値が剰余価値を発生させるという魔術的な連鎖のなかで、最大の危機は「分散」であり、「分裂」です。

 そこへ〈万人が相互に平等であるといった考え方を容易になしうる人間たち〉が生じて、すでに位置づけられている「搾取、隷属、位階秩序」が転覆されてはたまりません。が、後述する被抑圧民の反乱・闘争は、全力をふるって〈最も陰鬱なる組織〉を内側から破っていくのです。だから、専制君主そのもの、または専制君主の神》は、人々の誤謬や錯覚を再導入して群集心理を操作する比類なき道具とし、「民族」によって糾合していったのです。「民族」とは、崇高な特権であるように云われていました。

アメリカ大統領・ウィルソンが「十四か条の平和原則」で提唱し、ヴェルサイユ条約での原則となった民族自決は、実は、レーニンも革命運動のなかで唱えていたのであり、その後、民族独立の指導原理になったものです。

さて、ここで凄惨な残酷な暴力を受けた「慰安婦」の欲望について考えてみましょう。それは、たんに、ずっと奪われ続けてきたものを取り戻したいという欲求にすぎません。捨てられて顧みられることなく、多くは1990年代まで、鉄の鎖を足に巻かれたまま引きづって一人で歩いてきたのです。その大多数は道の途上で事切れてしまいました。

 「慰安婦」とは、まさに〈万人が相互に平等であるといった考え方を容易になしうる人間たち〉ですが、2015年、敗戦後70年の日本は、国家として謝罪しないままで、「席を譲れ」と凄んできているのです。

 知識人にとっては、「了解把握」の関係なのでしょうか?自分自身は、認められていて、既成秩序のなかに確たるポジションが保障されています。そこに、わたしは、見過ごすことのできない亀裂をみてしまいます。そこに強者のエゴイズムともいうものを垣間見てしまいます。

「知識人」は、どこまでも彗眼であろうとする目で、「民族」問題と「慰安婦」問題を、極めて丁寧に分析する必要があるのではないでしょうか?

 

信憑性もある対抗力もある必要な議論とは

民族主義とは、今日でもマイノリティの闘いにおいては重要なキーワードになっています。最後にポストモダニズム、ポストコロニアリズム的なナショナリズム批判において、かつて世界を騒然とさせたグアテマラの集団虐殺事件】を取り上げたいと思います。

周辺に追いやられ排除され、原始的で無害なものとみなされている「民族」に、今日、どのような悲劇と冒涜が起きているのか、世界は無関心なようです。

>「物質的支配は経済的支配である。我々がインディオでない者のために働く時、我々は搾取される。彼らは我々の労働が生み出す価値以下の賃金しか払わない。彼らはまた交易を通じて我々を搾取する。なぜなら彼らは我々の生産物、たとえば穀物や工芸品その他を安く買い上げて、高い価格で我々に売りつける。この支配は、地域的なまた一国のレベルに制限されずに国際的なものとなっている。大規模な多国籍企業は、我々の土地、我々の資源、我々の労働、我々の商品を求めてやってくる。彼らは、非インディオ社会において権力をもつ特権的な集団の支持を取りつけている。

 文化的な支配は、次のような考え方がインディオの心に完全に移植された時、存在するといってよいだろう。それは、西洋の文化が唯一のものであり、高レベルの発展を代表し、一方インディオ自身の文化は、文化でも何でもなく、そこからインディオがはいあがらなくてはならない最低レベルの後進性そのものであるという思想だ。このことから、教育というものが我々民族を分断する手段であることが明らかになる。」(1977年7月『バルバドス宣言』)

 グアテマラの集団虐殺事件】とは、グアテマラにおいて1960年から1996年まで続いた内戦です。アメリカは、グアテマラ『アルベンス政権』の政策を「社会主義的」であると見做し、またアメリカ合衆国の利益に反して容共的であると判断すると〈アイゼンハワー〉政権は、「転覆」を画策して【ジェノサイド(大量虐殺)】を白昼堂々と繰り広げたのです。これは、今日、中央情報局(CIA)が推進したものと証明されています。

当時、歴代軍事政権(アメリカの傀儡政権)による受難は世界中から抗議され、マイノリティから告発され続けたのですが、それは、お決まりの〈いつもの手順〉グアテマラ内戦」などと呼ばれて30年以上も〈残忍な暴力〉を食い止めることはできませんでした。

 あの抵抗の物語を世界は忘れ去ってしまったかのようです。

ヨーロッパの旧帝国主義列強が衰退したとき、すかさず「冷戦帝国主義として現われてきたのが、アメリカ〈帝国〉でした。核兵器を中軸としながら、すでに発達した資本主義国を糾合しながら「第三世界」を巧みに傘下に組み入れていきました。軍産複合体はアメリカ経済の中枢)

【WTO】【IMFなどによる規制緩和アメリカン・スタンダードを強制された弱小国は〈面従腹背〉〈仮面的追従〉を見せながら、いつも据え膳で我慢しなくてはなりません。食卓は少数者のためにだけ用意され、多数者は少数者の目的に奉仕しながら残り物で満足しなければならないという『暗黙の了解』

〈帝国〉は、不服従と罪を融合させるイデオロギーを得るために「教育」していったのです。その名は『新植民地主義』です。

 アメリカは『力の均衡』の扇の要になっているとされますが、朝鮮・韓国からみれば明らかに【南北分断】という最大の犠牲を払わされてきたのです。

信憑性もある対抗力もある必要な議論や「資料」は、いったい何時・誰が提供してくれるのでしょう。彼らが必要としているのは、単なる献身の言葉ではないと思います。自明のことですが、『比類ない暴力のシステム』に対して影響力を持ち得るのは世界の超大国のみです。揺り動かす言葉を語るのは、誰なのか!何時なのか!

 

《お断り》

前回、次回のタイトルは、【『慰安婦』の拒絶とは峻厳なるものです】と予告していましたが、またもや欺いてしまいました。申し訳なく思います。ただ、今、「民族」に纏わる誤謬を明らかにしないままに、民族的マイノリティである筆者が情感をこめて「拒絶」について語るならば、差別のバラマキに加担することになってしまいます。前提として、朝鮮の「文化史」、「民衆史」、また比較として日本・中国について書くつもりです。閉鎖的な民族主義、偏狭な政治主義へと流れ込む可能性を警戒しなければならないと自戒しています。

 

 

朴裕河批判(7)『なんじら、さらに知らんと欲するや そも何を?』

 

「187名の署名」を知ったとき、私は動揺し、しばらく思考が止まってしまいました。ふと我に返ったとき、なぜか北欧神話―巫女の予言の秘文を解く』にある詩編の一節を思い出しました。それは、『詩のエッダ(古エッダ)』のなかの一節です。オスロ合意」が脳裏を過ったのです。1993年、ノルウェー政府はシャドーワークに徹して成立のために尽力したノルウェー連帯の絆は「民族」でした。(※Ⅱ:筆者『後書き』に詳細を記す)

 タイトル『なんじら、さらに知らんと欲するや そも何を?』の一句は、『詩のエッダ(古エッダ)』からの引用です。(※下記Ⅰ)

 

『神々の没落―ラグナロク―に向かって〈誓約破棄〉』

ソールはただひとり その場にて 殴殺せり

憤怒に燃えて、

彼なれば 座視すること あたわず

かかることを 聞きつけたる上は。

誓いは 破れたり、

言葉も 誓約も、

すべての 厳粛なる 取り決めも、

間で 取りかわされしところの。

(※Ⅰ)スカンディナビア神話とも呼ばれています。ノルウェースウェーデンデンマークアイスランドおよびフェロー諸島の人々は、容赦なくキリスト教へ改宗させられましたが、その背景に、古代北欧異教徒の人生観〈ある特有な一つの概念〉である『罪』の概念を明らかにしています。それは極めて簡潔であり、「偽証」、「殺人」、「裏切り」、「欺瞞」です。

 ラグナロクの戦い」によって、「無垢の時代(黄金時代)」と「堕落の、崩壊の時代」との間に境界が引かれて「時代の転換」が始まりました。未来に対する恐れ、不安から思い煩いさらに戦いが続きます。【巫女の予言】は、>「なんじら、さらに知らんと欲するや そも何を?」と繰り返し言います。

 

 【日本の歴史家を支持する声明】が発表されました

http://www.asahi.com/articles/ASH575KGGH57UHBI01Y.html[朝日新聞デジタル]

リーダーの一人である〈米コネティカット大学〉アレクシス・ダデン教授は声明作成のプロセスについて、「比較的小さな研究界でこれだけの署名が集まることは画期的」と述べています。その動機については、日本の今般の憂慮すべき風潮に対して意見を述べなければならないと決意したといいます。

米国では今年2月、日本政府が歴史教科書を出した米出版社に対して慰安婦関連の文書の訂正を要請したことで「検閲」との批判の声があがり、そのニュースは世界を駆け巡りましたが、その後も、>「特定の歴史について率直な議論を規制する日本の動き」に対して研究者間で懸念が拡大しているため、知識人たちは慎重に着々と準備して発表に至ったとあります。以下に詳細記事。

 【187人声明」は、"反日"でも"反韓"でもない】[東洋経済オンライン] 2015年05月16日

http://toyokeizai.net/articles/-/69930

 

くしくも直前4月29日安倍晋三首相が【米上下両院合同会議】で演説を行っていました。その日は、昭和天皇誕生日

「知識人」たちは、首相が『演説』で述べた〈言質〉を逆手にとって「大胆に行動することを首相に期待」して、小異を別にして、なだめて宥めて「大同団結」に就いたようです。

 「敗戦後」、〈出来事〉を忘却し、「歴史」を葬りさろうとしてきた日本です。ヒューマンライツなドキュメントには、裏面史があるものです。事態の推移には人目につかぬ努力が払われていたようです。アメリカ在住日本人[社会哲学者] 小山エミ氏は、必要の急迫のもとに最善を尽くして論考を書かれました。以下にご紹介させていただきます。

 

【世界の日本研究者ら187名による「日本の歴史家を支持する声明」の背景と狙い】

http://synodos.jp/international/13990/2

       *[小山エミ氏プロフィール]非営利インターセックス・イニシアティヴ代表。「脱植民地化を目指す日米フェミニストネットワーク(FeND)」共同呼びかけ人。

 <日本研究者>さらに賛同者、456人に  [毎日新聞]5月19日

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150519-00000111-mai-int

>「欧米の日本研究者ら187人が、戦後70年を過去の植民地支配や侵略の過ちを清算する機会にするよう安倍政権に求めた声明に対し、さらに賛同者が269人増え、世界で456人が署名したことが19日、分かった。欧米では、安倍政権歴史認識に対する懸念が高まっており、8月にも首相が表明する戦後70年談話を念頭においた欧米から日本への進言といえる。」

 

「亡霊が蠢く真夜中」…不吉な予感がします

ひとつのヒューマンライツな物語が、胸を突き刺すことだってあります。【日本の歴史家を支持する声明】を読んだとき、私は戸惑い、やがて身の内から漠然とした隠うつな気分がわいてきました。

 灰色で、乾いている、したたかな分別のある声明文。新しい真理の姿を探って「中立の姿勢」を崩さず、より現実的なものとして練り上げられたものなのでしょう。それは、あたかも熟練した沈没船引上げ作業のようです。この「人間の仕事」に携わった人々の声を聞くと、そこには努力に満ちた喜びの手さえ感じられます。

にもかかわらず、私は、この「声明文」を繰り返し読んでは、月の見えない闇夜に立ったような空虚感に包まれてしまいました。それは、満月が欠けはじめて、ついに下弦で光が消えたような下降です。

 私を突き崩した一文は以下です。

>「その中でも、争いごとの原因となっている最も深刻な問題のひとつに、いわゆる「慰安婦」制度の問題があります。この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」

 私は、ブログ【朴裕河『帝国の慰安婦批判(1)〈拒絶するという序列化のロジック〉】にて、誤謬について指摘するために民族主義」、「国家主義」、「ナショナリズム」、「国民主義」、「国民国家について触れながら、その概念規定が雑駁すぎる点を批判していました。ところが、上の声明文にさえ、民族主義概念について見過ごすことのできない言葉の用語の問題を発見してしまったのです。

 まさか、無名無産の私が、世界の叡智「知の巨人」たちが練りに練り上げた声明文に矢を放つことなどできましょうか?内田樹も、自らのツイッターにて以下のように言っています。

>「とても重要な文章だと思います。書いてある内容もそうですが、論理の進め方、情理の尽くし方において学ぶべきことが多いと思います。」

>「それは英語本分、翻訳文ともに『修整の余地』がない。」

 と称えていますから、私の挑戦とは無謀なものであるかもしれません。にもかかわらず、鬱々と考えたあげく、私は、不体裁な姿をさらしてでも、やはりその虚栄を突かなくてらないと思うようになりました。

ここは、怖気を振るって民衆の常識に着目したいと思います。「実践〈慣習〉の転覆」こそが人間の総体=社会の変革につながっていくと思いますから、私なりに自己批判な超克へと通じるように道を探して書いてみます。

グラムシは、「カタルシス」的契機の定着は「実践の哲学全体の出発点になる」と書いています。

>但し「その意志というのは歴史的客観的必然性に照応する限りにおいて、合理的であって『恣意的』でない意志のことである」

>「この意志ははじめは一人の個人によって表現されたとしても、その合理性は、それが多数の人々によって迎えられるという事実、すなわち、その意志が一つの文化、一つの『良識』、その構造に照応する一つの倫理をもった一つの世界観となるという事実によって裏書される。〔Q11(XⅧ1932‐1933:〈INTRODOUZIONE ALLAFILOSOFIA〉§〈59〉.P1485〕

 

ナショナリズムの極点について

悪の権化でもあるかのように呼ばれる民族主義」「ナショナリズムですが、その原語は〔nationalism〕であり、実は翻訳においては民族主義」、「国家主義」、「国粋主義などの語が当てられています。

その背景は、フランス革命に始まります。ナポレオン戦争の動乱から拡がって1815年【ウィーン講和会議によって新しい経済秩序(漸進的膨張による世界経済体制)が形成されていきました。

野心的で無遠慮で軍事的征服者である〈大王〉は、「通商戦争」によって国民の集団的利害を煽り、「国家」と「国民」が同一視することに成功したのです。

※「良くも悪しくも、私の国」というスローガンは19世紀、アメリカで作られたものです。

 

以下を、『世界大百科事典:平凡社』27巻P576以降より引用します。

>「『民族』とは、伝統的文化の共有という客観的基準のほかに、〈われわれ意識〉という主観的基準が加わっている。それは固定したものでは無く、歴史的に生成され変化を遂げていくものである。」

>「人々は自民族のアイディンティティを明らかにしようとする欲求に支えられている。」

>「【民族形成】ふつう長期にわたる過程であって、さまざまな要因が背景にある。事実上、完全に孤立して存在してきた民族は存在しない。」 

>「複数の構成要素を含むばかりでなく、しばしば担い手としての集団、あるいは個人の移住、混血が民族形成の重要な時期として在る。」

>「【意識共同体としての成立】古墳時代以来の政治的統合の進行に伴って、日本列島の大部分の住民が単一の国家に属するようになった。」

 >「【民族意識の萌芽】他民族との接触、他民族との対決のとき、〈われわれ日本人〉という意識が成長して、とくにその接触が摩擦、ことに武力による対決を含んでいる場合尖鋭となり高揚する。※663年、『白村江戦い』唐・新羅連合に敗れた後、日本列島に閉じこもるようになった。

>「【政治と民族】一般に、集団の単位が地縁的・血縁的共同体に近いほど民族の虚構性が薄れ文化的実体と重なり合う。逆に、集団の単位が大きいほど政治的虚構に近づき、その極致が『国民国家』(nation state)に他ならない。」※近代国家は、文化的シンボルに依存する場合が多い。 

19世紀、労働者には祖国が無かった!

19世紀の自由民主主義」ナショナリズム民主化に向かいます。酔いやすい安酒をたらふく飲まされて、大衆は国家に対して忠誠心を示すようになっていったのです。1914年の危機によって、労働者大衆は自分のパンのどちら側にバターが塗られているかに気づいてしまいました。

 ここで留意したいのは、近代におけるナショナリズムの膨張についてです。これを政治家が犯した錯誤であると考える人は多数であると思いますが、誤謬と思います。「群衆と権力」の関係を省察する必要があります。

「戦争」によって経済領域を侵略し征服した欧米の経済ナショナリズムは、中産階級から大衆へと拡大していくのですが、その継続的過程のなかで進んでいったのです。そうして大衆を巻き込んで低廉な賃金で働く労働者は食物への関心に囚われていて、19世紀後半まで、しばしの間、自由貿易の伝統に忠実でいるしかありませんでした。

 1914年の世界戦争は、こうした近代国家間の最初の戦争でした。「国家」は勝つために、政策の手段として、民衆の民族的憎悪感を意識的に煽っていき、そうして、多くの「国民」が《敵国の国民に罰を与えるための正当な戦争目的があるのだ》と考えるようになっていったのです。こうして、抽象概念の背後にある個人主義というものが、理解されないままで、「民主主義」という文言が鼓舞されていきました。

それは、大衆を政治的志向から経済的志向へと転換させていったのであり、人々は「経済ナショナリズム」へと熱烈に凝り固まってったのです。

※近代ナショナリズムの始祖はルソーです。知る人ぞ知るですが、ルソーは、国家が一人の主権者、あるいは一つの支配階級のうちに具現化されることを危惧して、「国家」と「人民」を同一視して言論を張っていきました。とはいえ、その実、「普通選挙」権による民主主義には反対の論を張っていたのですが…。つまり、「啓蒙期」のコスモポリタニズムは、ロマン主義運動のナショナリズムへと置き換えられたということです。

 

もちろん、新しい社会層の勃興によって普通義務教育の導入、また選挙権の拡張によって、巨大な困窮と苦痛に耐えていた労働者の政治意識は成長し自らの政治的権利を主張するようになっていきます。こうして複雑な実態を認識しない人々は、ナショナリズム」とは、「インターナショナリズム」への幸先よい踏み石であると見るようになりました。ここに、ナショナリズム社会主義の同盟が始まっていったのです。

 

 この大衆のナショナリズムは、やがてナチスの「国民社会主義」の誕生につながっていきました。

「環を握って」国民を指図する国家の諸活動に対して民衆の監督権が確立されて…国家と労働者大衆は共犯関係を結んでいくことになったのです。

「鉄血政策」で知られるビスマルクは、社会主義労働者党の得票数が急伸長する事態に危機感をもち、選挙に勝つためには、社会保険政策として「疾病保険法」「災害保険法」「老齢・廃疾保険法」を実施しなければなりませんでした。

※「国民社会主義」との言葉は、ヒットラーの発明ではありません。1895年頃、フリードリッヒ・ナウマンが組織した知識人の一団が名乗ったものです。ヒットラーは、キャッチコピーの名手ですが実にパクリに長けていたのです。

 ※1907年、オーストラリアの社会民主主義者オットー・バウアーは、「諸国民の間の分化の増大、その特殊性の強調の先鋭化、その国民性の区別の強度化」を意味するとして、台頭してきたインターナショナリズムの理論「諸国民の間の相違を縮めまたは除去するだろう」という主張を痛烈に批判しました。

 

1931年以後、労働者は雇主と同様に、産業の保護と補助金にこそ関心をもちました。そうして「外国貿易」の独占こそが鍵であると考えるようになっていき「植民地争奪戦」に駆り立てられていったのです。

その技術とは、実は、一点非の打ちどころもない社会主義原則にも見事に一致しています。

こうして国家は、戦争においてその全力を発揮するために徹頭徹尾社会主義的な政策に訴えて〈敵〉を攻撃していきました。

 当然、邪悪な野蛮な侵略にたいして【民族解放戦争】が起きていきます。

>「植民地・従属国の被抑圧民族が、宗主国の支配・干渉を排除して民族の独立を獲得するために為される戦争。(『世界大百科事典:平凡社』27巻)

 愛国心とは愛郷心〈郷土愛〉あるいは〈祖国愛〉ともいわれ、自分が帰属する親密な共同体にたいして抱く愛着や忠誠の意識と行動です。ところが、外から、自分の属する集団の生活が侵害されるとなれば、それに対して防御的に対決していくことになります。

このような愛国心の心的原型》は、他の集団を異質な〈外集団〉として区別し〈内集団意識〉をつくります。それは郷土愛やお国自慢にとどまらず、歴史の状況の中で場合によっては「自民族中心主義」(ethno-centrism)になっていきやすく、国粋主義すら生んでいきます。

日本において、「愛国心」は、近代〈権力〉によって促成栽培されたという歴史的経緯がありますから、日本語の〈愛国心〉には国家主義的な意味合いがつきまといがちです。(『平凡社 世界百科事典』)

 

 朴裕河著『帝国の慰安婦』は、「歴史」についての誤謬が目を覆いたいばかりなのですが、「植民地問題」、帝国主義への中核をなす概念に触れると、その不安定さは小児病的です。是非とも、著者自身に再検討していただきたいと望んでいます。

 

膨大な数の犠牲者の上に築かれた繁栄

1848年、革命によって【ウィーン体制】が崩壊します。そうして、いわゆる「諸国民の春」が到来し、ヨーロッパには新たな状況が生み出されます。が、しかし、周知のように第一次世界大戦後、ナショナリズム最終的破産にむかって疾走していくことになりました。

 第二次世界大戦は、西ヨーロッパよりも東ヨーロッパにおいて兇猛に戦われ、ユダヤ【ジェノサイド(大量殺りく)】が行われました。またアジア・太平洋では多くの無辜の人が残忍野蛮に撲滅されました。いずれも〈非人道性〉と〈過酷〉さにおいて…言葉では表しようもありません。

しかし、ここで見落としてはならない点は、20世紀「戦争の世紀」において、西ヨーロッパが〈蛮行〉の例外ではなかったということです。

 第二次大戦後、欧米の先進国、また仲間入りした日本は、出来上がった既得権をいずれも取得したまま、相変わらず自らの権利の主張に躍起になっています。

 

何をやったのか、何をやらなかったのか!【為すべきことは分かっていたが、何も為さずにきた】との自己省察は、喉元過ぎれば熱さを忘れるのごとくにさっさと棚上げされてしまいました。

個人郡からなる「国民社会」と、国家群からなる「国際社会」のあいだに、いつのまにか類推が与えられて「民主主義」という国際的雄弁術が踊りだしました。この錯誤という悲喜劇が〈つき混ぜ〉〈ない交ぜ〉されて、先進国はスマートに健忘症を装うことができました。

 また、1919年の講和条約は、「民族的自決」という高邁な思想を妥当な原則としましたが、この民族自決主義が「分離」への永久的な魅力になったようです。ユーゴスラビアチェコスロは、オーストリアハンガリーを分割してつくられましたが、これらもやがて分割する運動を継承することになり、結局は大国の思惑に翻弄され続けています。この波及は、アラブ世界に、インドに、極東世界に急速に拡大していきました。

民族自決とは、「民族集団」が狭い境界線によって仕分けられている場合にのみ享受することができるものと思います。

実際、その国境線が関係住民の希望に合致するようにのみ引かれたと仮定してみましょう。ところが、地政学事情によっては、「軍事的安全」という大国の戦略的要請から忽ちのうちに力を受けてしまいます。また極端に走って「言語」を国民的忠誠の証明であるようにエスニック少数者を集団として「民族自決によって小国をつくった事例もあります。

ところが、これが帝国アメリカの理屈「善隣関係は、同一の戦略的安全地帯にある諸小国と一大国とが平時および戦時において同盟国になる。」とされては、やがて呑みこまれてしまう危険があります。

大国の権利と小国の権利が同一視されてよいわけがありません。また、少数民族の運動は、地縁集団に近いことから擬制の度合いが小さいとはいえ、「民族」シンボルが運動内部のリーダーシップによって操作されることが〈まま〉あり紛争が絶えません。

 「民族」、国民国家の概念は、21世紀以降、新しく書き換えられているのですが、ニッポン国の安倍晋三首相は、未だにヒットラーの流儀と区別できないようなキャッチコピーを連発して何ら恥じることがありません。

彼が最も好む「民族の自由」なるものが、実は、人々の【基本的人権と自由】という命題を一貫して否認することになっているという事実に、ご当人は未だに気づいていないようです。【自由の権利】と【平等の権利】は、個人のみに属するものであって「民族」に属するのもではあり得ないのに、です。

 

 拒絶する人の前途と一致しうるのか?

【日本の歴史家を支持する声明】は、拒絶する慰安婦の前途と一致しうるのでしょうか?

ひじょうに静的、抽象的表現であり、学問的です。認識論的な価値を持った主張であり、この声明は、心理学的にも道徳的にも「合理的反映」であると思います。「人類全体を包含する最大の関係」への配慮に満ちています。

>合理性の根拠は、「多数の人々によって迎えられる」という【最大の功利主義】であるという『有用なもの』であるかどうかにかかっている。」といいます。」(参考:グラムシ『カタルシス』と『合理性』)

 が、この期に及んで、私はグラムシの教えから束の間、逸脱します。

>「看られるように、『実践の哲学』は、現実の諸矛盾の『反映』なのであるから、人間がそれを媒介として『矛盾』の諸相を把み、それを変革、消滅していくことが眼目なのである。」とあります。

 「非政治的である」と喧しく説明されても、【日本の歴史家を支持する声明】に集ったメンバーは皆々、「知識人」として影響力をもっていると自負しておられます。名実ともに権威なのです。

いやしくも「権威」である以上、この計画は、「政治権力」というものと無関係ではなかったはずです。つまり、政治的権威を示していると思います。

戦前も、今日も、「非政治的」活動であると弁明しながら、その実、権威者がメンバーであるという〈威信〉によって、多国政府の許容と承認を得て、匿名的機関によって運営されている「国際機関」があります。

が、それは当然のこと先行する政治権力が立ちはだかっているという事実において、まごうことなく、やはり政治的なのです。「一つの世界」のような通俗的なスローガンが唱道されるとき、わたしたちは十分に用心しなくてはならないと思います。

 提供された「知性の言葉」が、進歩的で革新に満ちているとしても、また、それが革命的なテーマに呼応しているように見えるとしても、けれども、そもそも、その「生産装置」は、70年前、いや一世紀前につくられたものなのです。

その〈ひび割れ〉は、今では隠しようがありません。ですから、不用意にも、>「この問題は、日本だけでなく、韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」と、十派ひとからげにするような短絡的な表現は避けるべきと思うのです。あえて指摘するのであれば、具体的な事例をあげてその根拠を述べるべきではないでしょうか?

 この声明文は、学際的でありながら、しかし、暗々裏に政治的な主張を潜ませているように見えてなりません。米国は「歴史問題を巡って日韓の亀裂が深まり、東アジアの安全保障体制が揺らぐことへの懸念も強い」と言いますがすが、この声明文の眼目は、むしろ「中国」なのではないでしょうか?

 つづく

私のブログ記事は、長文すぎて冗長になってしまっています。ここで【続】とさせていただきます。次回は、間もなく掲載したいと思います。

タイトルは、【『慰安婦』の拒絶とは峻厳なるものです】となります。民族主義」「国家主義からの発言ではありません。実は、言われるところの韓国の民族主義、中国の民族主義の「物語」を書きたかったのですが、今というとき、人の胸を打つ「民族」の物語を書くならば、情緒的、情動的と誹られるかもしれません。そこで、今回は、その前提として「概念」について書いておきたいと思いました。

また記事中、2015年4月23日、参議院議員会館1階講堂で行なわれた【安倍首相訪米前 緊急シンポジウム慰安婦問題、解決は可能だ!!】への賛同と、その根拠を記事に書きます。

https://www.youtube.com/watch?v=fWkdV3fXpZc

 また、『韓国と中国の民族主義的な暴言』なるものを分析して、つとめて穏やかに批判したいと思います。

 

《後書き》

筆者は、訂正前の記事にて「ブレヒトの亡命の悲歌『スヴェンボルからの詩』(1939年)から引用しましたが、それは表現したい主題からすると、あまりにも持って回った言い方でした。悔恨です。今さらではありますが、書き直しさせていただきました。

 もともと、記事は『詩のエッダ(古エッダ)』から『神々の没落―ラグナロク―に向かって〈誓約破棄〉』を引用して書いたのですが、掲載しようとする直前、【日本の歴史家を支持する声明】を知り、悄然としたまま項垂れてしまったのです。

米歴史研究者らの声明にある、>「韓国と中国の民族主義的な暴言によっても、あまりにゆがめられてきました。」との表現を反芻し、反芻すると躊躇するばかりでした。

 実は、当初のタイトルの予定は【朴裕河批判(7)『昼なお昏き森』】だったのです。日本のなかの右派、自由主義史観論者の狂気の沙汰とも思えるような行動、また朴裕河氏の精力的な『帝国の慰安婦』正当化論、日本における活発な講演活動を眺めて、まだまだ「昏い」日本を危惧するからです。

 そこへ予定していた、『ラグナロク神話〈誓約破棄〉』の記載は強すぎるかもしれないと杞憂することになりました。それは、スカンディナビアの「民族の魂」を謳いあげたものだからです。筆者が、古いナショナリズムの持ち主として誤解を受けかねないと思いました。それは、歴史意識が「原初主義的な見方」と評さる鄭大均氏と同質と受け止められては困るというものです。鄭氏がかつて『韓国のナショナリズム』に書いたような、極めて情緒的なナショナリズムです。

>「血と歴史をともにする民族というものは厳然と存在するので、わが身が他人の身体になれないように、この民族が他の民族になれないことは、あたかも兄弟であっても、一つの屋根の下で暮らすのが難しいようなものである」

 そこで、再検討して『スヴェンボルからの詩』から引用して、智慧」と「感謝」をテーマに切り替えたのでした。ブレヒトは、1933年から39年まで亡命者のようにデンマーク〈スヴェンボル〉に滞在し、北欧神話にも強い刺激を受けていたからです。隠喩として、そのエッセンスが盛り込まれています。

「民族」をキーワードにしての闘いは、今日でも世界中で展開されていますが、それは、ヨーロッパにおいても歴然としていますし(スコットランド北アイルランドカタルーニャetc.)、南アジア、東南アジア、中東、アフリカ、南アメリカetc.では枚挙にいとまがありません。枚挙にいとまがありません。

が、【NO8】を掲載する段になって、【NO7】を読んだとき、我ながら仰け反ってしまいました。読者のみなさんは、さぞかし不快に感じたのではと思いました。唐突にブレヒトが登場したのでは〈ブログの主題〉テーマと全くクロスしません。

そこで、身勝手ではあり、不体裁この上ないのですが、正直に、当初書きたかった構想の通りに書き換えたいと思いました。

スカンディナビア半島の国々は、高負担高福祉福祉国家で知られますが、もともと岩と氷と森林の国、霧と沼の国であり、第二次世界大戦前までは貧しい国でした。凄惨な侵略に苦しみ、闘い続ける歴史でした。その戦いの合言葉は「祖国」であり「民族」だったのです。(現在もウクライナが大国の思惑から東西に引き裂かれて戦闘状態です。)

世界で最も男女平等が浸透し、男女間の機会均等、社会参加、利益において男女の差がなく[GDI][ GDP]、[人間開発指数HDI)]で、世界トップクラスに位置して、平均寿命、就学率、成人識字率ともに世界的に高く、自由で平等に行き渡っていることが知られていますが、それらはもちろん、天から降ってきたものではありません。北海の「石油、天然ガスの多くは貯蓄され、そうしてまた多額を海外の人道支援開発援助に当てています。国民一人一人の生活は質実剛健であり贅沢を好みません。

ノルウェーには、今日も多くの「紛争調停」の依頼が持ち込まれ、そうして惜しみのない努力を払っています。国民がこぞって国際支援を支持しているというのです。ノルウェーでは、イスラム教も静かな信仰を保障されています。労働組合NGOを組織して率先して国際貢献をしていますが、それは政府から潤沢な資金提供を受けているから可能になっています(金を出しても口は出さない)。なぜ?いかにして可能か?

そのような北欧の福祉について学ぶうちに私が遭遇したのが北欧神話でした。

厳しい自然との戦いは、民族に「思惟への真摯さとそれへの沈潜」を生み、道義の純粋さを守って他国の影響によることなく自力で立つことを促したといわれていますが、その源泉は「北欧異教神話」―「異教時代の北欧人の精神生活」にあると知りました。異教的北欧人の信仰の核心はラグナロク神話』であるといわれています。

強調されているのは、現在の状態はあるべき状態ではなく、「根源的調和」は破れており、ある混乱、ある堕落が起こったという自覚です。この場合、「罪」なるものは、キリスト教における「主我性」の蔓延のようなものを指すのではなくて、むしろ、〈高貴な力〉が〈下劣な力〉と手を結び、身を屈するといった「誇りの無さ」を罪といっています。

エッダ神話の無比の特性は、神滅論で終わることです。それは、散文的なエピローグに書かれています。民族がなぜ自分たちの神々に飽くのか、神々が古臭く弱々しいものになったとき、どのようにして彼らを捨てたかを…若き日の勝利と営為を謳いあげています。

魔法の鏡に映される「表」と「裏」が交差され、あらゆる生が「根本的な欠陥」に呻吟し、破壊されたことから生ずるさまざまな結果に耐えなければならないのですが、にもかかわらず敗北する運命にあると知りながらも、生きて戦い続けます。そうして「神々と世界」はラグナロクの戦いで負けて破滅します。「暗黒の三夜」の後、廃墟からより良き新しい世界が出現したといいます。

 ※「歴史」では、三つの氏族の長きにわたる戦争の後、互いに和解し人質を交換、異族間結婚や共同統治を行っていたされています。

リヒャルト・ワーグナーの舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』は、これより想を得ています。シベリウスの楽曲も多くの想を得たといわれています。

 

 

 

 

(6)事実を封印したのは誰か!徹底的な証拠隠滅

耳を澄ませると、廃頽した都市の干からびた井戸から、あの叫び声、あの泣き声が聞こえてきました。幾万もの、幾百万もの、幾千万もの「死者」が行列して、こちらを見ています。

『日本国』の飽くなき貪欲と非常な〈力〉を半世紀も眺めてくると、もはや日本は没落していくだろうと思いもします。※(注1)

私だって、奈落のふちを歩きながら〈奇妙なねじれ方〉で訴えてきてしまったのです。それは、「危険な渡り、危険な途上、危険な回顧、危険な身ぶるいと停止」という【綱渡り】※(注2)でした。それは、渡るのも、立ち止まるのも、身震いすることさえ危険な渡りでした。それでも、まだ、〈幸運なサイの目〉が出るかもしれないと、薄っらと期待してしまいます。もしかすると、霧の中から〈のろし〉が上がって、隠れていた峰々が晴れわたるかもしれません。

さいぜんから遠くに聞こえるあの異口同音の呻き声は、窮迫の悲鳴ではありませんか?「慰安婦」にはもはや時が残されていません。

 2015年は、メモリアル・イヤーです。日本は敗戦後70年。中国にとっては『抗日戦勝利』70周年。韓国にとっては独立を回復した『光復節』70周年です。そうしてまた『日韓基本条約締結』後50周年です。

※(注1)朴裕河氏は、著『帝国の慰安婦』の序文P10に、>「『朝鮮人慰安婦』として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした」と書いています。そこで、私も「ひたすら耳を澄ませ」て聴いてみました。

※(注2)『ツァラトゥストラはかく語った』「超人と最期の人間について」から引用。

 

リベラル保守』の偶像が鋳造されている

今日のタイトルは、【事実を封印したのは誰か!徹底的な証拠隠滅】です。やや、堅苦しいものになりますが、今日のインターネット上での〈右翼的な発言をする人〉、【ネトウヨ】のリアルな活動を見ると、彼らは白昼、堂々と「ヘトスピーチ」を咆哮しながら、署名・投書・募金活動、デモ活動、その際、時には暴力行為にまで及んでいます。この《害悪》を安閑と眺めてばかりもいられません。堂々と論駁しなければならないと考えますから、その分析と「反論」のための【資料】のひとつになることを願ってご紹介したいと思います。

 【ネトウヨ】は、思考強迫でもあるかのように執拗に「証明せよ」と言ってきます。今日では、少々手が込んでいて記号論理学の真似事のような屁理屈までもちだして迫てくる人がいます。

必然的に「正しい論理」があるのだと啖呵をきっては、「いったい、なぜ?」と言い、「なぜ?…だから」と言い、あげくは「…の場合別だが、なぜ?」と、繰り返し言ってきます。こっぴどいほどに反撃されると、おずおずと退散していくのですが…間もなくには名前を変えて再登場です。そうしてまたもや飽くことなく間違いを繰り返すのです。不可思議なことに、今日ではこの隊列に『リベラル保守』も加勢してきました。

 その〈妄想的構造〉は、権力の渇望であるようです。自身が渇望する奇妙な地位を手に入れるためには、(才能もあれば、邪悪でもあるような)彼らは、今日では周到な用意と狡智によって世論を味方につけたのだと歓喜の声をあげています。もちろん、背景には「金脈」があり、「人脈」―〈政治と宗教が分かちがたく錯綜している〉―があるのです。その偏執性素質は、恐るべき悪疫にまでいたるかもしれませんから、皆で力を合わせて退治に向かわなくてはならないと思います。

ネトウヨ新自由主義者は、《講釈師見てきたような嘘をつき》さながらに〈にわか作り〉の嘘を述べて「証明せよ」と迫ってきますが、スゴスゴと退散して歯軋り咬んでいては精神衛生上かんばしくありません。とはいえ、自分自身でいるためには、その支えとしての「知識」を持ってるほうが心強いと思うのです。

人々は、素朴に「真実」があると信じていますが、「歴史」は、時間継起的連続性のなかに切れ目なく滑らかな水平面に再現できるものではありません。ですから、残念ながら、「事実」をキャッチコピーのように分かりやすく説明するのは困難です。

 

「記録資料学」とアーキビスト

「資料学」とは、平凡社百科事典によれば、

>「一般に歴史認識のもととなるべき素材を資料というが、歴史研究の基礎であるこの資料について、いかなる素材が資料となりうるかを検討し、その固有の性格を究明し、収集・分類の方法を探求するのが〈資料学〉である。」と書かれています。

>「日本古文書学でいう記録とは異なり、人間が特定の目的をもって何らかの媒体に記録化した一次資料を指している。」

 「資料学」とは、英語ではアーカイブズ(archives)です。日本では国外でアーカイブ学を修めた人はごくごく少数ですから、その確保が容易ではないために現状では〈役人〉が負うことが多く、だから「公開」は、遅延するばかりです。アーキビストの仕事は、プロフェッションを要求されますが「誰が見ても異論のない絶対的な選別などあり得ない」のですから、それを不断に研究しつづけるとは孤独で厳しい仕事であると思います。しかし、この難儀な仕事に日本政府が〈金〉〈人〉を配置するならば人材を確保できます。実は「記録資料」は、単独ではなく「群」として存在しています。これを科学的に認識するためには、個々の記録資料の属性を理解した上で、かつその発生母体である記録資料群全体の構造を認識したうえで、その個を位置づけなければなりません。これが、『戦争責任問題』、『領土問題』の「記録資料」となれば厖大な量に及びます。とうてい個人の仕事では為し得ません。現在、『歴史問題』の記録資料の在り処が分かっています。その記録資料に見合う厖大な人材を投入して取り組むならば、解決への道筋も描きやすくなるはずなのです。(参考:『岩波講座 日本通史』別巻3〈資料編〉)

 戦後、左派の多くは、戦前のあらゆるものを批判しましたが、実は、日本は、言われるほどに粗製濫造ではありません。それは、【明治史料編纂】一つ見ても理解できます。明治改元(1868年)の翌日には、議政官と行政官において文書の施行区分と記録編纂の開始が決定されています。

>「明治元年九月九日、議政官史官、議ヲ上リテ奏上・詔制・審断ノ三牒ヲ設ケ、及ビ記録ヲ編輯センコトヲ請フ。三職之ヲ嘉一納シ、行政官モ亦本議ニ傚ハシム。是ヲ太政官記録の濫觴ト為ス。」(『太政官沿革志』全35巻-初代記録局次長〈小野正弘〉によって編纂された。)

>「維新政府の屋台骨さえ固まらぬこの時点で、早くも文書や記録にまで配慮が行き届いていることは、まず瞠目に値しよう。」(『日本近代思想大系』「近代資料解説:総目次・牽引」岩波書店1992年)

 近代の日本の「揺籃期」を開港から「日本国憲法」にいたる半世紀とみる学者が多くいますが、実は「近代化」のプロセスは、明治初年から10年間ほどの短い期間、ひじょうに凝縮されて進行しています。

 

「国家」の私利私欲が浸食して、心を蝕ぶ

日本の〈官僚〉(※注下記)は、自らの職務のみを忠実に遂行しますが、戦争という「疎外体験」は、いよいよ上意下達という一方向的なタテの人間関係を強くしていき、国家的なるものに対しては屈服し、従順な家畜のようになっていきました。ですから官僚は、お上が〈取り残した問題〉〈体制が積み残した問題〉を丹念に拾いあげては、その補強に熱心に取り組んで、そうして見事に立派にやりとげてしまうのです。

彼らは、思わず知らずのうちに自らの内に権力関係を刻み込んでしまい、権力の強制を引き受けて、それを自分自身に対して自発的に働かせていったのです。※注〈官僚〉とは、国家公務員の俗称とされて、巷では、キャリア・ノンキャリアの使い分けが目立ちますが、厳密には「役人」を指し、地方公務員も実は官僚と呼びます。今日ではⅡ種・Ⅲ種等採用の職員とキャリア採用者を区別していません。一般国民に対して公務員は公権力側の国民です。権力関係があるのです。

 官僚は国家的なるものに対する帰属意識が強く、その一人ひとりの個人は「普遍的なもの」を基準として判断する習慣を持っていませんでした。【ムラの掟】というものがあらゆる倫理に優位したのです。【ムラの掟】とは、「表の団結・裏の村八分という表現に見事に現われています。秩序の維持のために、掟を破った者、見ならわない者、異端者は容赦なく差別されました。

朴裕河著『帝国の慰安婦にしばしば取り上げられる【警察】ですが、朴氏は組織図を一切見ていないようです。警察こそが民衆掌握のシステムとして網の目を張って、人々の日常を探知していたのです。警察の基本は「予防」でした。社会の内部に配置した最末端〈巡査〉を通じて民衆が反体制的行動を起こす前に押え込むか摘み取るかが彼らの使命なのです。

今般、被植民地において「官僚制」「警察」が雑駁に語られすぎるきらいがありますが、「警察」を認識する場合、日本の民衆の「警察感覚」というものを見落としては、被植民地、被占領地での日本帝国主義の蛮行が正しく把握されません。これらは、当時の新聞の論調、府県会での「記録」を読むなら察することができるのですが、民衆は「警察権力」による秩序の安定を期待していました。いわば、ある場合には保護者であるかのように頼りにしていたのです。

 「文明開化」と警察

明治政府は、各区域内に警察署を設置し、そのもとに〈派出所〉・〈駐在所〉を哨所として配置し、そこを起点にして民衆の動静を日常的に監視・掌握していたのです。郡部では、家族と共に住みながら勤務したために「おまわりさん」と親しまれているようにも見えるのですが、それこそが狙いだったのです。

>「まず、一般民衆が警察をどう感じ、どう意識していたかである。警察の末端で直接に民衆と接し、権力を執行して政府・行政当局の意図を体現していったのは巡査であった。民衆は警察を正面きって批判し、対抗する術を保障されてはいない。したがって、民衆は警察による権力行使に反発しながら、不満を内向させ、しかし、時として揶揄まじりに「放言」して鬱憤をはらす。これがたまたま巡査の耳に達すると、官史侮辱をもって民衆に縄がかけられることとなる。」(『日本近代思想大系』「官僚制 警察」岩波書店1992年P494)

>「日本の近代警察は極度の中央集権性をもって確立され、一方で、その頭部における政治権力の意志は地域末端まで貫徹され、他方で、末端において捕捉された民衆の動静は、権力機構を通じて中央に集約されていくというシステムをその特質とした。そのような機構のなかを還流するのは、行政優位の干渉主義的な権力行使であり、政治権力の擁護を最優先として、民衆の平穏・安定の確保を二義化する体質であった。」(『日本近代思想大系』同上P500)

 このようなシステムが「徴兵制度」を社会に根づかせてゆくための方策になっていったのです。

 〈西欧的思惟〉とは似ても似つかない〈朱子学的〉な【村意識】

大日本帝国憲法は敗戦後の否定運動によって、とかく否定的に語られていますが、その蓋を開けるならば当時としては近代的な憲法として評価できる面が多々あります。【大日本帝国憲法第9条】は、国民の権利が天皇に対しても「不可侵性」をもっていると明記されていますし、

>「天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ案寧秩序ヲ保持シ及臣民ニ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス」

 また、国民の権利が明文化されていて、不当な手続きによる逮捕監禁審問処罰を受けない権利(第23条)裁判官による裁判を受ける権利(第24条)不当な手続きによる住居捜索を受けない権利(第25条)等が認めらていました。また、立法府議員の不逮捕特権(第53条)司法裁判官の独立性(第58条)等、三権分立が明確に盛り込まれていました。

また、日本の「近代」は、西洋近代思想に依拠していたように見えますが、実は、その思想の「形式」は〈西欧的思惟〉とは似ても似つかない朱子学的〉な【村意識】でした。例えば、明治憲法「刑法典」は、まずは、フランス刑法の影響を受けて、ついでドイツ刑法の影響を受けたのですが、しかし、「新律綱領」・「改正律例」では多くを中国の【律】に従ったのです。

>「その精密・豊饒の論理は多くを律によっていたという事実も銘記されねばならない。」

>「今や、学者の中にも支持者を広げている『共謀共同正犯理論』は、その発想の淵源を新律綱領・改正律例の共同理論に有するものである。かかる意味において、この法典は、死せる過去ではなく、現在を生きている過去だということができる。」(『日本近代思想大系』「法と秩序」岩波書店1992年P539)

 西欧の近代思想にある「個」という倫理性をもっていないのですから(『私』という人の内部をもっていない)、困難に直面したとき(ことに官僚は)、否応なく自らを「特殊的な地位」であると開き直るのでした。が、その実、決して〈特殊な決定〉をすることはなかったのです。常に「既成事実」に従います。権力構造の内部で〈既成利害〉を貫徹しようとするならば、結果的には、権力構造の外にある「客観的事実」の無視につながります。この【理】を無視して「定式化された」返答をするのは悪意があるからではなく、それが習性なのです。ですから、官僚は、いつも決断を回避して「お上」を仰ぎました。(今日の官僚に瓜二つのようです。)

※例えば、伊藤博文は官僚である以前に「政治家」でした。矜持として寡頭権力としての自信と責任意識をもつていた巧みな政治家でした。安重根によって暗殺されましたが、抵抗勢力の反撃は予想していたと思います。

今回、朱子学的〉な【村意識】を長々と書いたのは、訳があります。日韓の間に横たわる深い溝を埋めるためには、日韓の文化を比較しなくてはなりません。日韓の共通項として、しばしば〈朱子学的〉〈封建制社会〉を示す人がいますが、両国は、その政治史が甚だしく違うのですから、「解決」のためにはその背景にあるを明らかにする必要があります。多くの日本人は、中国・朝鮮の文化を大いに見間違っていると思います。ここは、時代の寵児になったことがある小倉紀蔵氏のように〈権力におもねる〉のではなく、国家権力に反立を立てようと思っています。

 

狼が羊を貪り喰うとき-「焼却命令」

第二次世界大戦〈降伏〉が決定的になった直後から、8月「占領軍」が到着するまでの2週間の間、日本政府は各地に「焼却命令」を出しました。この命令は、陸海軍において徹底的なものであり、市町村レベルの〈兵事関係〉文書にまで及びました。(『岩波講座【日本通史】〈別巻3資料論P101〉』、同じく吉田裕著『軍事関係資料』岩波書店1992年)

内務省にも手ぬかりなく周知されて、特高警察資料〉など、『戦争責任』に問われそうな文書は徹底して焼却されたのです。

ことに、「朝鮮人強制連行についての記録」は、地方自治体の公文書として存在していたのですが、樋口雄一著『全国歴史資料保存利用機関連絡協議会』会誌『記録と史料』第2号「朝鮮人強制連行の記録と文書館」(1991年10月刊) によれば、現存する資料は稀であるといいます。(とはいえ、稀には残存しています。)

〈山田昭次〉・〈古庄正〉・〈樋口雄一〉共著朝鮮人戦時労働動員』(岩波書店2004年)は、緻密な調査、唯物史観論による精緻な分析の書であり、「朝鮮人強制連行説【虚構論】」に対する優れた批判の書です。この本の書評が、ウェブにて読めますから、以下にご紹介させていただきます。

http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/oz/573/573-06.pdf

 さて、外務省においては、外務省記録の焼却は、8月7日には決定され、ただちに本省および疎開地で実施(焼却)されていたのです。

>「内容ヨリ見テ絶対ニ第三者ニ委スルコトヲ防止スヘキ」

 外務省記録[全12万冊のうち、6698が1945年5月~8月のうちに失われたと記録されていますが、その大半は外務省本省からの焼却命令によるものです。

>「このため機密度の高かった中国関係の記録が多く焼却され、戦前外務省記録の重大な欠陥となった。」(『岩波講座【日本通史】〈別巻3資料論P102、同じく『臼井勝美「外交記録と『日本外交文書』1976年:みすず』第 200 号」)

 

>「焼却を免れた政府文書は、占領軍の押収対象となった。アメリカ陸軍省の敵国資料押収機関WDCWashinngton Documennt Center)は、日本敗戦の直前の88日に押収目録や作業手順を定め、1129日以来ATISAllied Translator and Interpreter Section)の援助のもとに政府各省、貴衆両院、枢密院、警視庁ほか各府県警察部、満鉄(東京支社、東亜経済調査局)、主要軍需企業の捜査を行った。とくに陸海軍に対しては徹底的で、士官教育機関にも及び、疎開した文書も免れなかった。押収資料はGHQや日本政府の緊急に必要とするもの、あるいは極東軍事裁判用のものを除きアメリカに送られ、194611月までワシントン郊外のWDC図書館に入ったものは約48万点に達した。他ルートによりWDC図書館に入ったものも多く、田中宏巳の調査によれば、資料に貼付けされたWDC番号には70万台のものも存在するという。このほかにもCCD(民間検閲支隊)が押収しメリーランド大学に送った「戦時教化・宣伝刊行物」7769点や、極東軍事裁判国際検察局が独自に行った押収資料の例もあり、米軍全体の押収文献は厖大な量に達した。」(井村-1980、奥泉・古川-1981、田中-1995)、(岩波講座『日本通史』別巻3〈資料編〉P101~103)

>「後述のように、これらの資料は図書を除いて大半は日本に返却され、もし押収されなければ闇に消えたような極秘文書まで公開されることになり、資料の一時消滅を意味する押収が、かえって公開の機縁となるという皮肉な結果を生む。この点に関し特記しなければならないのは、占領軍の押収を免れたものに内大臣府と宮内省があるということである。WDCの方針の最初から除外されていたのか、それともマッカーサーの意向によってそうなったのか不明だが、日本帝国の最高権力者たる天皇身辺の押収対象から除外したところに、アメリカの天皇制温存の態度が明白に読みとれるのである。もし天皇周辺の機密文書が押収され、占領解除後、他文書同様に返還されて公開されるか、アメリカでマイクロ化されたならば、日本近代政治史の資料状況は一変したことであろう。」(岩波講座『日本通史』別巻3〈資料編〉P101103

 上の書は入手が難しいので、以下の「歴史学」論文をご紹介します。北京大学〈臧運祜〉氏が慶應義塾大学法学部に客員助教授として招聘された時の論文です。専門的な「歴史学」ですが、時代を考察できると思います。ウェブにて読むことができます。

『主要文書より見たる日本の対華政策―満洲事変から盧溝橋事変にかけて』

運祜(Zang Yunhu)〈訳・鬼頭今日子〉

http://modernchina.rwx.jp/magazine/16/sou.pdf

 また、降伏の際、陸海軍や軍需工場が保有していた軍需物資は厖大な量にのぼっていました。実は、本土決戦に備えて日本国内に残っているすべての物資が「軍」や関係機関に集中していたわけですが、降伏に先だって、政府や軍は、これらが占領軍に渡されないように処分することを決めていました。すなわち8月14日、降伏発表に先立つ閣議で、次が決定されていたのです。

>「軍其の他の保有する軍需用保有物資資材の緊急処分の件」が決定された。

>「陸海軍は速やかに国民生活保全の為に寄与し民心を掌握し以て積極的に軍民離間の間隙を防止する為、軍保有資材及び物資等付穏密裡に緊急処分方措置す。尚陸海軍以外の政府所管物資等に付ても右に準ず。…略(『太平洋戦争史6〈サンフランシスコ講和〉P15.』)

 この閣議決定は、軍需物資の掠奪競争を引き起こしたのですが、その時、一部の軍人や資本家によって、>「分取られ隠匿された。」のです。(同上P16

 人間の下に潜んでいる怪異の貌

さて、ここで私たちはハタと訝しく思うわけです。多くの日本人が疑っていない「日本にも対韓請求権がある」とは、いったい何を指していたのか?(日韓基本条約成立までの交渉過程での久保田貫一郎・外務省参与の発言は【久保田妄言】として歴史事件でした。)しかし、降伏を目前にして、日本支配層が降伏後の生存のために積極的に政府を動かして活動していたことは外国人歴史家、ジャーナリスが克明に記事にして本国に送信していましたから、さまざまな記録資料として残されています。

>「大日本帝国」政府が資本主義敵国(下記)との友好政策を決定した正確な日ずけはおそらく421日あたりだったにちがいない。この日、ビルマラングーンでは,イギリス人捕虜に余分の食料が与えられ,医学記録は破棄され、囚人たちは日本にむかうため路上にひきだされた。そして29日、かれらは[釈放された]ことをつげられた。(デービッド・W・コンデ著『現代朝鮮史』(Ⅰ)p23―太平出版社1973年)※アメリカを指している

>「いかなる帝国主義権力も、あらゆる防御手段を講ずることなしには、一寸たりともその帝国を放棄するものではないという公理を追認して(ママ)※東京の日本財界指導者たちは、まだ戦争が終わらないうちから、かれらの戦争犯罪が警察の責にされるだろうと察知し、アメリカ人とすすんで協力するむねを公言していた。」※ここには翻訳の問題あり(同上P24

>「藤山愛一郎氏の記録によれば、終戦6日前の8月9日にひらかれた閣議において、「顧問」格の財閥代表たちは、アメリカとの経済関係をただちに回復させる計画を発表した。高原の避暑地軽井沢で、かれらはシャンペンのコルクをぬき、産業の新時代到来を祝して乾杯したと、藤山は記録している。アメリカが占領軍になることを、全員が喜んだ。」(同上p25

 実は、すでに1945年3月上旬、三井の終身番頭であった藤原銀次郎に、大陸にある財閥権益をできるだけ救い出すという任務が与えられていました。

>「どのような帳簿をつけねばならないか、どの記録を破棄するか、どの品物を日本に急送するか、どの産業を破壊するか、また「忠誠」を買い経済混乱をつくりだし、敵を堕落させるために何百万という金をばらまいて利益を得ることなど。(※注:指導した)安倍総督もある程度までかれの指示を期待していた。615日にひらかれたおそらく最後の定例閣議で67417000円(約三千万ドル)の支出を命令したが、まったく防衛目的のためとされてはいたが、資金の一部が、藤原が保護しょうとしたその同じ権益を[守る]ため巧妙にも分配されたことは疑いがない。(同上p24

>「朝鮮における短期および長期の権益を日本の商社に保証するため、またべつの手段もとられた。戦争が終わったとき、多くの(日本人)労働者はまる1年分の退職手当を受取り、商工業、行政、警察部門で、忠実に日本人につかえてきた信頼のおける中流朝鮮人には、特別の一括ばらいボーナスが支給された。」(同上P25

朝鮮史家の〈ジョージ•M•マッキューン〉は以下のように書いています。

>「日本財閥は、外交官や軍人を使って、朝鮮人民が北朝鮮に建設された重工業を獲得することを阻止する方向で動き、富のすべてと財界指導者が引き上げたあと、鉱山地帯と工場に火がつけられるまでは、一寸たりとも土地を放棄しない、とかたく決心していたのである。」

『日本は、接近しつつある敵軍の進路にあたる鉱山や工場を破壊した。二世代にわたる伝統的敵(ロシア人)のきびしい権力の陰に暮らすよりも、過去4年間の軍事的敵国(アメリカ軍)の到着を待つ方がはるかに良いと考え、かれらは、大挙して南に逃れた。……したがって、1945年8月における日本の対ロシア工業破壊は、のちのアメリカ地区でのばあいより、はるかに広範なものであった。……64の鉱山が完全に水をかぶり、さらに178が一部水につかり、工場19が完全に使用不能となったがそのなかには清津の2鉄工場、城津の電気炉2基、平壌の2飛行機工場という、もっとも重要な六つの工場がふくまれていた。そのほか47工場のうけた損害も甚大なものであった』(同上P25※原典 『GeorgeMc.McCune,KoreaToday”P44~45・P213

マッキューンはまた、以下のように書いています。

>「日本が興南大化学工業を焼きはらうのを阻止した朝鮮人労働者の4時間におよぶたたかいについて語っている。破壊活動の激しさは、8月15日、正式に日本の降伏が宣言され、停戦命令がだされてからも、数日間に渡って赤軍と日本軍との戦闘がつづいた」DW・コンデ著『現代朝鮮史』(Ⅰ)P16

 上のような「史実」は枚挙にいとまがないのです。日本国は、込み入った複雑な問題を国民は理解しないだろうと踏んで、注意深く伏せてきたのです。

 Already(すでに)とは、「すでに無効」か?『暗黙の了解』

1965年締結された韓日条約とは、アメリカの経済的困難というジレンマがもっとも端緒に現われた事件でした。そこには、アメリカの東アジア構想-〈アメリカ主導の韓国・台湾の新植民地主義という野望があったのです。綿密な事前調査から用意周到に計画されました。

日韓基本条約」とは、社会体に遍在するミクロな国家の抑圧「装置」を巧みに仕掛けて、あえて言葉を雑婚させて〈曖昧さを残して〉決着させたものです。

この条約が、「日台条約」締結の準備と並行して進められたことを振り向くならばアメリカの魂胆は見えてきます。米韓日関係強化を優先させたことから、「日韓併合条約」に対する解釈や独島(竹島)「領有権問題」などで、「外交」といヴェールを被って、あえて曖昧な部分を残したのです。また今日問題となっている「従軍慰安婦問題」もこのときは議論されませんでした。

韓日条約」のとき、1910年の【日韓併合条約】について、「Already(すでに)」という用語が表わされて、それは日本では「すでに無効」と解釈されましたが、ここには、重大な「翻訳」の問題があります。これが1910年の時点で無効であったのか、あるいは1965年の「韓日条約」で無効になったのかは明らかにされなかったのです。それは、「韓日の対立点」解決は後世の世代に任せ、当面の課題解決に集中しようとの「思惑」から取られた措置であったとようです。

 日本は、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約で台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権を放棄しましたが、この講和条約には中華人民共和国中華民国のいずれも参加していません。その後、日本は、アメリカの仲介により、台湾のみを実効支配する中華民国政府との二国間講和条約の交渉を開始。1952年4月28日、日華平和条約に調印、日本と台湾(中華民国)との国交は回復したとされていますが…学説には、「サンフランシスコ平和条約および日華平和条約では台湾の主権の帰属先は未定である」という台湾地位未定論があります)。台湾の「歴史」は複雑の極致です。※今回は、朝鮮半島に特化して論を勧めていきます。

以下に重要参考文献をご案内します。

・日韓会談第五回基本関係委員会議事要録、日本側公開文書第六次公開、公開決定番号892、文書番号977

・木宮正史「日韓関係の力学と展望一冷戦期のダイナミズムと脱冷戦期における構造変化」(国際基督教大学社会科学研究所『社会科学ジャーナル』612007年)

・『金・大平メモ』について :李洋秀「韓国側文書に見る日韓国交正常化交渉(その2) 請求権問題下」(季刊「戦争責任研究」第54号 78-88P

・永井和ホームページ『日本軍の慰安所政策について』 永井和(京都大学文学研究科教授)http://nagaikazu.la.coocan.jp/works/guniansyo.html

『映像で見る占領期の日本』-占領軍撮影フィルムを見る-http://nagaikazu.la.coocan.jp/GHQFILM/index.html

 

《新生日本》は、不死鳥のように登場したのか

1945年8月の降伏という「敗戦」は、その時を境目に突如として不死鳥のように《新生日本》を誕生させたのでしょうか?あらゆる国家が個というさまざまな特殊性を切り落として「国民の物語」を作り上げてきました。

どの国も「国家」とは、国家の正当性のために「戦争の記憶」を継承する必要があると主張します。日本の一部では、ことあるごとに「植民地時代に日本は韓国に良いこともした」との発言を繰り返し、それに対して韓国では「すべて否定」してきました。日本は「何回謝罪すればよいのか」と言い、韓国は「何回謝罪を覆すのか」と言い、互いに睨み合っています。

歴史修正主義者は、一隅の事実の欠片を置いた上で、そこにフィクションを重ねて、その境界をぼかして「国民の物語」を見せます。日韓の人々は、そのような悪だくみを鵜呑みにしたり吐き出したりして健忘症になってはならないと思います。

 大日本帝国が消滅して以後の「戦後」から70年目、あろうことか、日本では東京裁判」見直し論が喧しく話されています。「普遍的な原則が確立されることなく、アメリカ・日本の間で特殊的利害間での原則を欠いた調整が行われた。」「戦勝国による戦争行為としての『東京裁判』は不公正なもの」等々です。国際政治学者、大沼保昭氏までが方々で『東京裁判無効論を唱えている始末です。

しかし、サンフランシスコ講和条約とは、日本がポツダム宣言を受け入れ、極東軍事裁判を承認した上で締結されたものでした。もしも、無効というのであれば、日米韓の戦後レジーム】が覆えることになるのです。日本は逆立ちして世界を渡っていこうとしているのでしょうか?巨大なアメリカに正面切って手向かえないために、その根拠を文書操作によって揺るがして、そうして疑惑の毒を次々と注ぎ込んで日本国民を目くらませさせようとしているのでしょう。

 日本は、「集団的自衛権憲法の容認する自衛権の限界を超える」との見解を示してきていましたが、2014年7月、自公連立政権下(首相:安倍晋三)で閣議決定により従来の憲法解釈を変更。憲法9条の解釈を変更することが閣議決定されてから「戦争」に勇み足で進んでいます。が、実のところ、日本国民は自分が戦場に駆り出されるとか、ましてや日本が戦場になることを想像してはいないようです。

日本人の多くは、権力に従順であり、没社会的自己中心主義者ですから、丸山真男がいうように

>「ひとたび圧倒的な巨大な政治的現実(たとえば戦争)に囲繞(いじょう)されるときは、ほとんど自然的現実に対すると同じ『すなお』な心情でこれを絶対化する」(『中央公論』1960年8月号)のでしょう。

日本の軍事力は、予備隊創立当初からソ連・中国の脅威に対応するアメリカの集団安全保障体制の中の「安全保障軍」として位置づけられていたのですし、その一方で、アジアの民族解放運動も敵視して(怠りのない警戒)、琉球(沖縄)は、アジア地域の有事に即応した主要な恒久的基地にされてきたのです。それは、1949年3月、アメリカ参謀本部が公式に日本に再軍備を進言してNSC-13/2の改定】を勧告したときには決められていたことでした。そうして5月採択されたNSC-13/3】以後、同文書では沖縄の恒久基地化・軍事基地拡充方針が決定されて今日に至っています。

東京裁判】では、被告が千差万別の自己弁解をえり分けて行いましたが、そこに見える大きな論理的鉱脈とは、「すでに決まつた〈政策〉には従わざるをえなかつた」「それは、既に開始された戦争は支持せざるを得なかつた」というものでした。有事の後、またぞろ騙されたと嘆くのでしょうか?

 このような危機の時代の真っただ中、現代日本の社会的志向を読んだうえで、いかにも「果実」を取り出すように『帝国の慰安婦』を刊行した朴裕河氏は罪が重いと言わざるを得ません。

 

 

 

朴裕河『帝国の慰安婦』批判(5)批判攪乱された「国際法上の議論」と「国内法上の議論」

魔法の花々が呟くように、 >「『朝鮮人慰安婦』として声をあげた女性たちの声にひたすら耳を澄ませることでした。」※注1と話したので、バラの茂みのうしろの方にひっそりと眠っていた女たちは、めぐり合わせを喜び、ひそやかな出会いが取り交わされたように待っていました

                                 ※注1 朴裕河著『帝国の慰安婦』P10

が、本の扉を閉じると、瘧(おこり)が落ちて、初めて〈朴裕河〉と相まみれたのです。埋め込まれていた死骸は次々とむっくりと起き上ってきました。その眼窩(がんか)から眼球が飛び出すほどに、こちらをじっと凝視しています。

 

目を凝らして見るということ。耳を傾けて聞くということ。

2015年は、植民地解放から70年、「日韓条約」から50年を数える年です。

私たちは、もう二度と「慰安婦」を無下にしてはなりませんでした。果てしない航海を経てようやくたどり着いたこの地点に、塞がれた回路を再び〈交通〉させて、さらに〈横断〉させて、その上さらに、もともとなかった回路までもどんどん引いていかなくてはならないのです。人々は、この期に及んで、再び隠蔽・忘却などさせてはならないと、祈りを繋いでいます。

ひとつの〈力〉は小さなものであっても、微細な力線がびっしりと詰まって、今、地下茎を作り、あらゆる地点から波状に伝播しようとしています。

 ところが、日本では負け犬の遠吠えのように、2015年3月17日、秦郁彦日本大学名誉教授、大沼保昭明治大学特任教授(元アジア女性基金理事)が並んで悠然と記者会見を行いました。 「McGraw-Hill社への訂正勧告」について説明したのです。

http://blogos.com/article/108036/

 口火を切った秦郁彦氏は、

>「アムステルダムの"飾り窓の女"というのは有名ですよね。我が東京においてもソープランドがあるのはご存知だと思いますが」と切り出し、次から次へとアグレッシヴな発言を続けます。

>「強制連行はなかったと私たちは強調しているんですが、慰安婦というのは、大多数は朝鮮人の親が娘を朝鮮人のブローカーに売り、それが売春宿のオーナーを経由して売春所に行くと、こういう経路であります。」

続いて、大沼保昭氏です。ひとしきり「アジア女性基金」の功績を自画自賛した後、憤懣やるかたなしというように発言しました。

>「マスメディアは非常に巨大な影響力をもっております。そのために時として社会の諸国民を抑圧する行動を営むことがあります。メディアの意義は巨大だが、同時にメディアは非常に公共的責任を負っております。ところがメディアやジャーナリストの多くの方々は、政府の権力性に集中して、自らの権力性には鈍感と言わざるを得ません。」(会場から笑いが起こる) 

 この最中、またもや朴裕河氏を絶賛するコメントがあったとは、愚かである以前に喜劇的です。聴衆の中からは何度も笑いが漏れました。

ひじょうに興味深いブログ【法華狼の日記】がありましたから、以下にご紹介させていただきます。『 [報道][戦争][近現代][笑えない][陰謀論者]「歴史家」であることすら怪しい19人が米国教科書へ訂正要求をおこない、そこにアジア女性基金理事が連携している問題について』http://d.hatena.ne.jp/hokke-ookami/20150317/1426658313

 秦郁彦氏、大沼保昭氏は、まさに「炎を吹いて吠えながら」語っているのであり、あの犬の国家(ニーチェ)に飼われるようになったようです。「無反省で何ら変わらない日本」をまざまざと見せつけられました。「右翼」や「国家主義者」とは一線を画していた知識人・文化人までが結集していく様を見て暗澹とします。

 会場から失笑をかった大沼氏ですが、「メディア」をことさらに懸念しているようです。確かにマスメディアの権力性は危険なものです。では、メディアのリスクについて、私も別様の切り口から反撃していくとしましょう。

 映画やテレビの映像は、私たちの行動を煽り称揚し、そうして知らず知らずのうちに「ある文化」のイデオロギーと交差させていきます。(参考:リチャード ダイアー著『映画スターの〈リアリティ〉拡散する「自己」』)

毎日、何気なく観ている〈テレビのニュース番組〉〈時事番組〉ですが、実は視聴者は知らず知らずのうちに、そこに含有されている意味というものを「そのまま」に受け取るように手なずけられているのです。それは、押しつけられるという風にではなく、いつの間にか無意識のうちに運ばれていくというように、です。だから、テレビ番組の制作者は、大衆の心を鷲づかみしようと日々、苦心惨憺です。

例えば、〈ある出来事〉の解釈を示す場合、さり気なく自然さを装って、そこに、多種多様な言説を許容しているかに見せるのですが、実は視聴者の社会的、文化的、政治的世界の地図が抜かりなく把握されていて、易々と〈支配的意味〉に包みこまれていくのです。その仕業は、否応なく強要されるという風ではなく、〈支配的な優先的な意味へ〉と組織されていくということです。

マスコミは時代を読み、「群衆の孤独」を洞察・計算しています。だから、当然、迂闊には〈国益〉という階級・階層の利益を埋め込んではいません。

ここで、あの天安門事件を思い起こしてみましょう。中国政府は、天安門事件のリアルな映像を国民に見せてくれました。ただし、それは〈虐殺〉の映像を編集し、その〈ほんとうの意味〉を反転させたものでした。つまり、学生運動の模様をあたかも〈軍隊への攻撃〉でもあるかのように再編集して放映したのです。こうして参加者は、罰せられるべき犯罪者として仕立て上げられて、そうしてその後、国家の弾圧政策は正当化されました。あの【9・11アメリカ同時多発テロ事件も同じ装置によって伝播されていきました。衝撃映像は、連日、全世界にリアルタイムで伝えられ、それは「反復」という「強調法」で増幅されていき、世界には速やかな報復イスラム原理主義勢力によるテロ攻撃】を肯定する世論が形成されていったのです。

ここで、私は問題提出したいと思います。その物語は、〈一つ〉の解釈を強要したわけではないのです。そうではなくて、むしろ〈対抗的な立場〉、また〈交渉された立場〉まで差し入れているのです。いかにも、多種多様なメッセージを発しているように見せながら、実は彼らの支配的な定義のなかで補強されて正当化されて、〈意味〉が受け取られるように仕組んでいるのです。ここでの作り手の最大の関心は、その物語と〈支配的イデオロギーがあからさまに関係していると見取られないために、いかに挿入し縫合していくかということです。この理論によれば、視聴者は、与えられた立場以外に〈選択の余地〉はもち得ようがありません。

これが、政治問題(政治的契機)となれば、権力は権謀術数にたけています。あえて多面体を回転させて演出して多種多様な見識、複雑な思考回路、拮抗する意見、支配的なイデオロギーを崩すかのように見える物語までも提供して、視聴者を快適な気分に浸らせるのです。この手練手管は、いつの間にか大衆の社会批判を不可能なものにしていきます。視聴者は、不当な政治問題の事件であっても、このリアルな放送によって安直な答えを共有したのだから、自分はわざわざ政治的行動を起こさなくてもいいのだ、些末な〈進歩派〉の言説などに惑わされなくてもよいのだと納得するようになるというのです。(参考:コリン・マッケイブ著『ジェイムズ・ジョイスと言語革命』) 

狡かな通路、陰険な回廊

上記の大沼氏・秦氏の暴挙とは、まさに『帝国の慰安婦』の内容にピタリと重なっています。さて、いつものように、誤謬の一つ一つを拾いつつ反論していきます。

3P246『ふたたび、日本政府に期待する』(P246)は、誤謬というよりも捏造と呼びたい醜悪なものが夥しく続き、私の再読という作業は、苦渋を咬み千切るようなシンドイものでした。

P246以降 >「日韓基本条約の文面は次のようなものだった」として、部分を引用して解説、解釈しています。が、正しい理解のために外務省[PDF]にて全文をご紹介します。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/treaty/pdfs/A-S40-237.pdf

『帝国の慰安婦』本文は右往左往する混乱したものですから、以下に朴裕河氏自身が書いた記事【東亜日報】2013年9月30日から、そのまま引用してその概要を示します。(『帝国の慰安婦』本文は、このように簡潔ではありません。)

>『挺対協の主な要求である日本の法的賠償、国会決議による謝罪と賠償は事実上実現可能性がなく、要求の根拠も不十分だと指摘した』

得たり知たり顏で「1965年の日韓協定の限界」と題して書かれていますが、この文面は、あたかも日本政府のスポークスマンのようです。日本の植民地支配、戦後処理を「史実」として捉えていない証左でしょう。

P247 >「日韓間の交渉は、1951年、朝鮮戦争のさなかに、当時の大統領イ・スンマン(李承晩)の要請で始まったという。」

と、朴氏は書いていますが、誤りです。ここには前史がありました。

>「韓国はサンフランシスコ会議に参加することも許されなかった。中国に亡命していた大韓民国臨時政府は1941年に日本に対して宣戦布告していたが、その政府が国際的な承認を獲得することに失敗していたので、朝鮮は日本の交戦国のひとつとして扱われえなかったのである。」

日帝の侵略を受けたその日から朝鮮民族の武装闘争は、ハバロスクの抗日武装部隊、中国革命の中の朝鮮義勇軍、韓国光復軍など詳らかに知られていたのですが、米国もソ連も認めなかったのです。パリ講和会議における列強の無誠意に失望した臨時政府は、パリ委員部、欧米委員部(アメリカ設置)、ロンドン委員部を置き、とりわけアメリカ議会に強く働きかけていましたが外交辞令で応じるばかりでした。ソ連・中国のみが交換条件のもと支援しました。

梶村秀樹朝鮮史』新書東洋史10)(洪淳鈺『韓国近代史論』姜萬吉『韓国現代史』高麗書林)大韓民国臨時政府の独立過程」知識産業社※韓国出版物1977)

 1949年、韓国政府は東京との間で「通商財政協定」を締結しています。1949年4月、韓国は万難排して、東京に〈外交代表部〉を開設していました。1951年、米国の思惑から、北朝鮮に対して日本の部隊を使用する可能性を想定して打診された時、李承晩大統領は、「その場合、北の共産主義者と休戦してでも日本人を撃退する」と鋭く反論していました。李承晩は、大統領に就任すると速やかに、日本への公式な謝罪、対日賠償請求権を欲求して米国を困惑させ、挙句は排除の憂き目に遭ったのです。

※注 筆者は、李承晩を評価していません。欧米の民主主義を学びながらその実、儒教的な知識人の権化であり、日本に対しては徹底してゼロ・サム・ゲーム的な対立を露わにする人物でした。結局は、老獪な吉田茂に一杯喰わされて敗北したのです。

アメリカは日韓関係のもつれを懸念して、国連軍司令官マーク・クラーク将軍、マーフィ大使が吉田と李を東京の昼食会に招待しましたが、突如、吉田は欠席を知らせてきました。しかしクラーク将軍が主催する李承晩歓迎レセプションには出席せざるを得ませんでした。その時、吉田は、>「われわれの軍国主義者たちに責任がある」と発言したのです。これを聞いて我が意を得たりと勘違いした李は、ここで長時間にわたって日本を弾劾する演説を行いました。その時、吉田茂は、ひたすらに微笑を浮かべていたといいます。(オリバー・ファイルの忘備録Murphy,Dipomat Among Warriors,P351)。「歴史」を勧善懲悪から脚色して李承晩を弾劾すれば済むという話ではありません。「史実」は誰によっても捻じ曲げられてはなりません。

李承晩は、「独立協会」(1896年)を設立した徐載弼の盟友でした。1904年2月『日韓議定書』が強要され、天皇・皇族を大株主とする国策会社【東洋拓殖株式会社】が設立されると、朝鮮は憤激のるつぼと化し、韓国の独立解放運動のうねりは全土に波及していきました。その闘いは火縄銃で武装する平民義兵からブルジョア啓蒙運動へと展開を経ていくのです。啓蒙運動の拠点には数多くの教育機関が生まれていって、ブルジョア民族主義思想は民衆のなかに根をおろし内面化し拡大していきました。「保護条約」強要の真相が伝わると、初期義兵に学生、両班儒生、著名な儒学者までがたちあがり、やがて軍隊解散が実行に移されると多くの将校・兵士がなだれ込んできて義兵の隊列につきました。日本帝国主義に弾圧され討伐されると、いよいよ抵抗は鍛えられて、やがて社会主義的民族解放闘争へと移行し、さまざまな[独立軍]が乱立していきました。姜萬吉『韓国現代史』高麗書林)

それは窒息せんばかりの日本の弾圧に身を賭して闘う壮絶なものでした。しかし抑圧され圧迫されても決して萎えることがなく、パルチザンに身を投じる者も続出しました。祖国が解放されたとき、中国、シベリア、米国に亡命していた独立烈士たちが続々と帰国し「日帝36年」を合言葉に再建に向かっていったのです。

※突如として朝鮮が【38度線分断】されたとは、米国とソ連の思惑のなかで餌食になったためです。この重要な『歴史』については、遠からず、別稿にて記事を書きますが、ここに概要を少々記します。朝鮮半島南北分断を同族相争いとみている日本人は多いと思います。しかし、さに非ずです。実は【38度線】とは、大国覇権主義の強い連合国同士の思惑から引かれたものなのです。日本降伏後のアジアでの覇権を考慮しつつも、互いが利権を漁った結果、朝鮮が犠牲になったのです。 (藤村信「ヤルタ〜戦後史の起点」岩波書店)(五百旗頭 真『日米戦争と戦後日本』)

対日降伏要求宣言『ポッダム宣言』は、際どい綱渡りのなかでソ連を外して(ソ連は、打算からまだ対日戦には参加していなかったので、第三者であるという口実をつくった)発表されたものなのです。つまり「抜け駆け」です。ソ連は、日本を分断して北海道を己が占領しようとしていたのですが…瀬戸際で、アメリカの日本単独占領が実現してしまいました。まさに〈してしまった〉という不可思議な話であはあります。日本が、ドイツのように分断されずに済んだのは大国の「分別亡き打算」によるものであり、それは幸運ともいえるものです。それは朝鮮の分割占領の犠牲のうえに成ったものでした。その後も朝鮮半島には「冷戦構造」の矛盾が最も鋭く投影されていきました。 (藤村信「ヤルタ〜戦後史の起点」岩波書店)

 

P246~252までは、誤謬に満ちています。

P251 >「日本は、…略…韓国に公式に謝罪したことはない。」と書いたかと思うと、P253 >「植民地支配に対する天皇や首相の謝罪はあった。」

 と来ます。これは何ぞや!です。読みながら、その言い替えが空疎な弁解に聞こえてきます。

 

隠れた状態から、明白な状態へ

では、ここでは対論ではなく「史実」を記載します。(論破できないためではなく、混乱のなかへ読者を巻き込みたくないからです。)

第二次世界大戦後、日韓の間隙を狭めるための知的対話が必要とされましたが、残念ならそのような人材は皆無でした。李承晩は、日本との平和条約締結のために飽くなき努力を重ねますが功を為しません。そこで、サンフランシスコ条約が締結されるとすぐに〈連合国最高司令部〉に日韓会談の斡旋を要請し、また、ワシントン駐在の張勉大使に対して「韓国にはサンフランシスコ条約に参加する権利があることを強く主張するように」と指示もしました。そうして、ようやく1951年「日韓会談」がもたれたのです。しかしこの会談は、両者の亀裂に爆発音が聞こえるほどに絶望的なものになってしまいました。そこで業を煮やした李承晩は暴挙に出たのです。1952年1月18日、米国に無断で朝鮮沿岸50~60マイルの水域に対して主権を宣言したのです。これが「李承晩ライン」です。日本はサンフランシスコ条約に調印していましたが、未だ発行してはいない米軍占領下であることに可能性をかけたわけです。しかし、この苦渋の交渉のなかで「サンフランシスコ条約」に日韓関係に直接的に影響を及ぼす条項【第4条(b)項を挿入させることができたのです。それは、以下です。

『日本国は第二条約及び第三条に揚げる地域のいずれかにある合衆国政府により、またその指令に従って行われた日本国およびその国での財産の処理を承認する』

(李庭植『戦後日韓関係史』:中公叢書1989P52)(『高麗大学亜細亜問題研究所』編『韓日問題資料集』第2巻、P651~653)(藤島宇内『日本を揺さぶる韓国の政治不安』中央公論[320248]P82

 日本政府はあらゆる戦後補償問題に対し「サンフランシスコ条約および二国間条約により解決済み」と繰り返してきましたが、それは、真っ赤な偽りと指摘しなくてはなりません。日本政府は故意に講和条約4条(b)項』にある請求権の問題を避けて「韓国人被害者個人の賠償請求権も消滅した」と歪曲した解釈を繰り返し述べました。そうして事あるごとに「日韓協定によって解決済み」「完全かつ最終的に解決済み」と表明しては風評を広めていったのです。冒頭に書きましたが、国民を易々と〈支配者〉のイデオロギーに包みこんでいったわけです。今日では多くの日本人が地獄で合奏でもするかのように韓国をバッシングしています。

 

「異議申し立て」を巧みに回収しては忌まわしい形式へ

朴裕河氏は、知ってか知らずか、堂々と以下のように書いています。

P195 >「被害者団体は、1965年の条約により『補償』は終わったという現実に対して、日韓の法ではなく、国際法上の法規を適用しようとしてきたようである。しかし、そういったものも『法的に』日本を追及できるものではないという結論ともいえるだろう。」

さて、まずは、ここで優れた論考をご紹介します。【『日韓協定によって解決済み』論に対する山本弁護士の反論】は大いに参考になります。

http://www.kanpusaiban.net/saiban/yamamoto-hanron.htm

1992年3月9日【衆議院予算委員会】における伊藤秀子議員の質疑の答弁から明らかですが、日本政府は、日韓協定締結時から個人の請求権を消滅させるものではないことを十分に認識していたのです。(甲六五号証)

国際法上の議論と国内法上の議論を故意に混ぜ合わせながら、日本国民を惑わせて「解決済み論」へと導いていったのです。

実は、日本政府の二枚舌とは、かつてから繰り返されていました。【原爆裁判】下級裁判所民事裁判判例集14巻2451頁)【シベリア抑留訴訟】国立国会図書館『調査と情報』230号)のいずれにおいても、訴訟の被告人となった日本政府は、

>「サンフランシスコ平和条約・日ソ共同宣言の請求権放棄条項によって放棄したのは国家の外交保護権のみであり、被害者個人の米国やソ連に対する損害賠償請求権は消滅していない、したがって、日本国は被害者に対して保証する義務はない。」と述べました。

 読者のみなさんは、ここで〈ガッテン〉なさいましたか?つまり、自分が請求されたとき、必死の言い逃れで理屈を作ったのです。まるで落語の小話のようです。ある場合には「韓国人被害者個人の賠償請求権も消滅した」といい、そうして自国民の請求に対しては、「個人の権利の請求の消滅を意味しない」と相矛盾したことを主張しています。文字通り墓穴を掘ったのです。つまり、「個人の権利の請求の消滅を意味しない」との見解は、日本みずからが苦肉の策として創始したものなのです。

ここで、本題の朴裕河氏批判に移行します。実は朴氏は、【ハフポスト】趙世暎氏の論考をすべて読んでいるのですから(後述)、日韓という、まったく別の二つのナショナリズムの間で、巧みにダブルスタンダードをしているわけです。

 

いかがわしい「公式の虚偽」へと変質

『帝国の慰安婦』P192他に、

>「個人が被害補償を受ける機会を奪ったのは日本政府ではなく韓国政府だった」

と何度も書かれていますが、あまりにも独善的な解釈であり噴飯ものと言わねばなりません。気の毒にも、P193には、藍谷邦雄弁護士の法律論を引用しているのですが、自分に好都合な部分を引用した挙句に、

>「たとえ慰安婦制度に問題があったとしても…略…それに対する損害賠償を求めるのは不可能だということになる。」

と得手勝手にまとめています。

※参考として【〈従軍慰安婦〉問題討論 ~歴史学 vs 人権弁護士~】

http://www.yourepeat.com/watch/?v=AXWb4MQ_-hU

私には未知の人物ですが、経歴を調べてハタと疑問に思われましたから藍谷邦雄弁護士の記事、論考などを読んでみました。真逆でした。朴裕河氏とは、どのような思想の持ち主なのでしょう。背景の違う多様な『言説』を水平化して真偽を綯い交ぜにして歪曲し、自分の主観によって塗り替えています。これらの全ては「慰安婦」にとって不利益です。さらに二次被害をもたらす惨い言説です。

P184 >「根本的な問題は、日韓併合が、国民に知らないところで少数の人によって『合意』の形を取って行われたことにある」として、

P185より、「日韓併合条約の拘束」と題して論を展開していくのですが、>「当時の併合が〈法的〉には有効だったという致命的な問題が生じるのだ。」

 と紋切型に結論しています。

ここに及んでは、朴氏の虚栄の数々に辟易するばかりです。「歴史」「法律」「国際政治」「文学」を総動員していかにも学際的な論考であるように見せていますが、「日韓併合」「韓日基本条約」への見解を読むならば、朴氏は日本史ばかりか自国の歴史にも疎く、ほぼ全ての論考が付け焼刃の借り物の知恵であると判明します。酷なようですが、私は、朴氏ご自身に「読み直し」を促すために、率直に批判しています。証明するためには「正確は義務」ですから、少々長くなります。読者の方は、どうぞジャンプしてください。

韓日基本条約21910822日以前に大韓帝国大日本帝国との間で締結されたすべての条約及び協定は、もはや無効であることが確認される」と規定されています。

【外交的事実】とは、関係国の利害を反映しますから、それぞれが異なる解釈をして、相反する記録を作成するとは珍しいことではありません。韓日基本条約第2条】の解釈を、日本政府は「【韓国併合条約】が『締結』された当時は、これが法的に有効であったことを認めた」と解釈しました。

しかし、韓国政府の解釈は逆です。条文から「【韓国併合】が当初から法的に無効であったことを定めたもの」と解釈したのです。

 では、ここで《国際法上の評価》をもって類推し、客観的に判断しましょう。

当時の国際法においては、国家への武力による条約の強制があっても有効であるが、国家代表者に対する脅迫があった条約は無効原因となるとされていたとは〈酷薄な事実〉なのです。

また、1963年、国連ILC報告書の中で、ウォルドック特別報告官第二次日韓協約を国家代表個人の強制による絶対的無効の事例とし発表しています。

ここで言う代表者個人への強制の事例としては、強硬な反対派であった参政大臣(総理大臣)の韓ギュソルを別室へ監禁し脅迫の上、官印を強引に奪い取って極書に押捺させた事などが挙げられています。その様子は、ロンドンデイリーメイル紙の記者マッケンジーの著書『朝鮮の悲劇』他に書かれています。(11月23日付け英字新聞『チャイナ・ガジェット』)

ここで、少々解説します。日清戦争後、日本は先勝の余勢に気勢をあげて次々と高飛車な要求を朝鮮つきつけてきました。そうして軍人、警察は大陸浪人を引き連れて我がもの顔で闊歩したのです。

そうして世界の帝国主義侵略史上、他に例をみない粗暴極まる閔妃虐殺事件】を起こしたのです。当時、日本は戦争景気にわいていて過熱状態はいよいよ高揚し、排外主義・収奪は激しくなっていきました。そうした世論を背景に日本帝国主義は着々と朝鮮の植民地計画を邁進していったのです。

日露戦争の最中、1905年、11月9日、伊藤博文は、京城に着くと翌日には慰問と称して韓国皇帝に無理強いして会い、そうして再び15日訪問すると、今度は「保護条約締結」を迫って皇帝を脅迫したのです。その後、特命全権公使林権助に根回しを命じると、17日、伊藤は、駐屯二本軍に王宮を包囲させた上で、直接、朝鮮政府の閣議の会場に乗り込んでいきました。梶村秀樹朝鮮史』:新書東洋史10)(旗田巍『朝鮮の歴史』三省堂)(中塚明『近代日本と朝鮮』:三省堂新書)

>大臣一人一人に脅迫的に賛否を答えさせて、汲々として次々と賛成するようになると、最後まで拒み続ける総理大臣韓ギュソルに対して、>「わたしは諸君にばかにされては黙っていない。」と激高して迫り、韓が震えてようやく「他の閣僚と意見を異にするのもやむを得ない。よろしく進退を決し、つつしんでこの大罪を待つほかはない。」と言うと、(韓は)さっと席を蹴って立ちあがったが足取りもすさまじく、会議室を出て、国王の御座所のほうにむかっていった。ところが、よほど興奮していたからであろう。国王の室と王妃の室を間違えてはいってしまった。失態である。急いで出るには出たが失神してしまった。」林権助『わが70年を語る』:ゆまに書房2002年)※この描写の臨場感とは、犯行に当たった当人が回想録として書いるためでしょう。

 閔妃虐殺事件とは事実であり文書によって証明されています。現職公使三浦悟楼の直接指揮のもとに駐留軍軍人と大陸浪人が王宮に押し入って、王妃を虐殺し死体を凌辱し、その挙句、石油をかけて焼き払ってしまったという事件です。世界を震撼とさせた事件ですが、何と三浦らは裁判にかけられたものの「証拠不十分」として全員免訴になってしまいました。角田 房子閔妃暗殺―朝鮮王朝末期の国母』新潮文庫) この著は、真相を掘り起こした優れた歴史読み物と思います。

 

蔓延する政治的ニヒリズム

P238 >「『河野談話』が認めたのは、〈軍人が強制連行〉したという意味での『強制性』ではなかった。日本政府が認めたのは、あくまでも『慰安婦』という存在が『総じて本人たちの意思に反して』生じたという点であり、そのことに対する総体的な責任である。」

P239 >「少なくとも『河野談話』の文面が認めている『強制性』は、間接的な強制性のみだった。」

 朴氏の言は、現実と自分の距離を測ったうえで、シニカルにあれもダメこれもダメなんだと言いつつ、あたかも〈保守〉を美化し期待しているかのような幻想を振りまいています。何のために?卑俗なる欲求が透けて見えてくるようです。

政治問題の論争が交錯する場に自らわざわざ出かけて行った朴氏ですが、主張するように解決のための道筋をつくりたかったというのが本心であれば、やはり「事実における堅い芯」「それを包む疑わしい解釈という果肉」を対照させながら吟味するという「対象との対話」(丸山真男)が必要です。しかし、そもそも河野談話という《歴史的事実》を洞察してはいなのです。

道に踏み迷うものの案内者を買って出ようとするのなら、まずは、歴史的背景を辿り直す必要があります。1993年8月4日に発表された「河野談話」ですが、これは積極的に自発的に出されてきたものではありません。

1991年以降、「慰安婦問題」は日韓の最大の懸案の一つとして浮上していましたが、1993年2月に発足した金泳三政権は、日韓関係を対局的に判断して、韓国政府が元慰安婦を金銭的に支援する政策を打ち出し、代わりに真相究明や青少年への学習指導などを日本に求めたのです。真実は、〈外交〉という水面下において真相究明というものを粘り強く交渉していました。勿論、「慰安婦」問題は請求協定によって解決されると踏んではいませんでしたが、日本に対して道義的責任を迫ったのです。そうして、5か月後、努力が実ってようやく「河野談話」が出されたのです。

この時、両国は自国民に対してそれぞれ別の説明をしていました。

日本は、韓国政府自らが「元慰安婦を金銭的に支援」したことを当然だと白を切るような発言をしました。(すでに請求権協定によって解決済みであり韓国政府が受け取った請求権資金で支払うべきだったが、今になって行ったのだ。)

一方、韓国の金泳三大統領は、屈辱を噛み殺して国民に真相を発表することはありませんでした。「道徳的優位に立った自救措置」と説明して、韓国民の尊厳を守るべく演説したのです。(ここで、『道徳的優位に立った』について解説します。日本では、この言葉がとかく揶揄されているのですが、これは儒教の『仁』とか『徳』という意味であって、優劣をつけて日本を下に見るということではありません。儒教の教えが国民には受容されると読んでいたのです。)

韓国は、そのような不満を日本に抱いていましたが、何はともあれ「河野談話」には、慰安婦の募集、移送、管理などが「総じて本人たちの意思に反して行われた」と表現されていますから、強制性を認めたことを評価したのです。それは、馴れ合いではなく、別の肯定へと前進していこうという意思でした。

しかし、そのような接近は、早晩にも崩されていくことになってしまうのです。すぐさま、日本の保守派、新自由主義者タカ派は「河野談話」に圧力をかけていきました。

1995年の「国会決議」を前にして、日本の右派は、199412月【終戦50周年国会議員連盟】(事務局長代理 安倍晋三)結成。翌966月、歴史教科書への攻撃を狙って「明るい日本・国会議員連盟」(事務局長代理 安倍晋三)結成。97年【明るい日本・国会議員連盟】(事務局長代理 安倍晋三)結成。同年さらに【日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会】結成。これが、2004年『日本の前途と歴史教育を考える議員の会』(事務局長 安倍晋三)と改名されて、以後、歴史教科書へ集中攻撃をかけて〈植民地統治美化論〉という政治的キャンペーンを展開していったのです。

その騒然とした動きの中で〈政治家の妄言〉も韓国に聞こえてきました。またもや韓国は臍を噛んだのです。

そのような苦渋が察せられる記事があります。

【ハフポスト】趙世暎(チョ・セヨン)東西大学特任教授、元韓国外交通商部東北アジア局長『日本軍慰安婦問題を考える』です。

http://www.huffingtonpost.jp/seiyoung-cho/japan-comfort-women_b_4909640.html

「日韓の友好」は、金泳三政権を継いで金大中政権(98年2月発足)も重視し、盧武鉉政権(2003年2月発足)も基本的にこの路線を踏襲していました。

ところで日本では知られていませんが、韓国内では、1965年締結された【日韓基本条約】の交渉過程を明らかにすることを求める運動が活発化し続けていましたし、その関連文書の公開を求める裁判も起きていたのです。(韓国の大衆は日本の教科書記載をめぐる問題に反発しました。国内にはいつも『日本問題』はあり続けていたのです。しかし、韓国政府は外交問題にしないように鎮めようと苦心していました。)

ところが、とうとう裁判所の審判により〈公開〉を命じられてしまいました。そこで韓国政府は2005年8月、韓国側文書を全面公開したのです。同時に、「サハリン残留韓国人」、「元慰安」、「在韓被爆者」について日韓請求権協定の例外とすることを確認し、韓国側の財産権放棄を定めるに至ったのです。つまり、個人の請求権が消滅していないことを明言したのです。

さて、これを受け、市民団体は慰安婦問題」について、いよいよ韓国政府の取り組み不足を批判して、問題とする裁判を起こていきました。その訴えから5年後、11年8月、韓国憲法裁判所の違憲判決」が下されたのです。

韓国憲法は、元慰安婦らへの個人補償が協定の例外にあたるのかどうかを、韓国政府が日本政府と交渉しないことを違憲と判断した。

このような展開は想定外なものであり、日韓とも狼狽したに違いありません。日本政府は堂々と「協定によって請求権はすべて消滅した」と国民に宣言していましたし、韓国政府にしても、外交的配慮からなされた「知恵」であったはずの「被害者に対する実用的な支援」が、障害にぶつかってしまいました。

もはや、韓国政府としては、判決に従って日本政府に対して協定第三条一項によって〈外交的協議〉を提案しなければなりませんでした。これは憲法裁から命令された義務なのです。ところが、これに対して日本政府は公式な回答を出さないのです。つまり頬かむりしているわけですが、このような日本政府の不体裁をいったい、いかほどの日本人が知っているのでしょう。

李明博大統領が、首脳会談において日本の首相に「慰安婦」問題の解決を強く迫ったのは、この「違憲判決」によるものでした。韓国政府は、いつも日本政府と被害者に挟まれて動揺していたのです。日本は「何回謝罪すればよいのか」と言いましたが、韓国も「何回謝罪を覆すのか」と抗議しました。これが躍起になって繰り返えされている応酬です。実は、両国とも水面下において厳しい外交交渉に取り組んでいたのです。(その交渉も13年12月の安倍首相の靖国神社参拝で途絶えました。)

今日では、NGOや女性団体の活動が拡大し、その国際的な協力が飛躍したこともあって、韓国政府は、徐々に被害者の声に押されて「被害者の権利拡大」のための方策へと舵を切り直しています。

河野談話をさらに屈曲していく鉄面皮な罪

2014年6月20日、日本政府は【河野談話検証結果】を発表しました。その中には〈秘密解除〉されていない外交記録実務者間の意見交換の他、外相会談、首脳会談の内容にまでいたる詳細な記録)が多く含まれていました。外交問題なのですが、事前交渉どころか前触れもなく、突如として発表されたのです。これは異常事態です。正常な外交をあえて壊すような愚挙です。韓国政府は日本が日韓の協議内容を勝手に編集したものだと受け止め、態度を硬化させていきました。

※2014年6月23日、趙太庸〈韓国:第一次官〉は、別所浩郎〈駐韓国大使〉に対して、外交機密を暴露したとして「日本政府の信頼性と国際的な評判が傷つくことになる」と批判を申し伝えた。

なぜなら、その内容は明らかに均衡がとれておらず、日本政府に都合よく編集されていたからです。アジア女性基金に関する内容が三分の一ほども割かれているのですから韓国政府は「慰安婦問題」で攻勢をかけてきたと読みました。外交協議の内容まで一方的に公開されて、韓国が「アジア女性基金」を評価しないばかりか、非難さえしているという印象をもたせるものでした。かつ、「いわゆる『強制連行』は確認できない」という文言が2箇所も含まれていたからです。ところで、肝要なことをお伝えしますが、それは一つの〈外交的事実〉についてです。
金泳三大統領との交渉以来、日韓の水面下でのやり取りを秘密にしてほしいと頼んできたのは日本だったのです。それを自らが不当に約束を反故にしてしまったのです。韓国は欺かれたと落胆しようです。2014年2月20日、石原信雄元官房長官は、いきなり衆議院予算委員会に引き出されて、政府が望むように証言しなくてはならない立場に困惑、狼狽したでしょう。その心中、察して余りあります。

事実は「知る人ぞ知る」なのです。私は、第二部にて書きましたが、「基金」は当初から韓国では大反対されていました。被害者と支援団体は、あくまでも日本政府の法的責任と補償を要求してきたのですから、「個人補償ではなく人道支援措置」という民間人からの償い金では認められないというものです。韓国政府は、韓国世論を受けて勘案し、日本側に何度も「基金による償い金の支給は好ましくない」と強く伝えたのですが、日本側は、にもかかわらず躍起になって基金事業を進めていき挙句は支給を強行していきました。韓国内の反発は強くなるばかりでした。

13年2月、朴槿恵政権が発足すると、慰安婦問題をめぐる状況はさらに混迷を深めて、韓国政府は、慰安婦問題に関する白書を出版・公表する準備に入ったと公表ました。(それは、>「一致して入念な準備によって構成された『違法性』を主張するもの」であるとのことです。)日韓の「歴史問題」は、ますます硬直しているようです。

植民地解放から70年、「日韓条約」から50年を数える今年、2015年。日本の右傾化のなかで歴史修正主義たちは日々、巧妙に(資料操作にもとづいて)執拗な攻撃をかけてきます。安倍晋三政権は、マスメディアの独占に苦心し、そうして衰退・腐敗に拍車がかかるマスコミをいよいよ「生ける屍」にしようと驕慢に邁進しています。この時、果たして『帝国の慰安婦』の刊行は如何なる〈位置と現在〉なのでしょうか?

私たちは、思わず知らずにナショナリズムの鼓吹に乗せられて不可視な不透明な権力の支配的な意味に包まれてしまいます。それらは日常的に絶え間なく再生産されて、ひたひたと忍び寄ってきているのです。自由を奪われ欺かれたくないなれば、その「国家権力」の諸関係を私たち一人ひとりが丹念に逐一読み解いて、そうして、執拗に組み換え続けなけなければならないと、自身を叱咤する毎日です。